10

「目が覚めた、兄さん?」
 心配そうな声に、エドワードは「ああ」と答えて、はっと体を強張らせた。
 目の上に乗せられている、すっかり温くなっているタオルを剥ぎ取り、勢い良く体を起こした。
 目の前の弟の姿を、凝視する。
 夢じゃないのかと、一瞬、疑った。
「アル……? 本当に、アルなんだよな?」
 そろそろと左手を伸ばし、目の前の柔らかさを残した頬に触れた。
 指先に温かな温度。
 安堵の溜息が、思わず零れた。
 ずっと、ずっと、何年も求め続けてきた熱が、体温が、エドワードの手に感じられた。
 夢じゃない。現実なんだ。
 焦がれてきた体温に触れているんだと、泣きそうになる。
「アル」
「兄さん」
 エドワードの手に、アルフォンスは自分の手を重ねる。
 伝わる熱。
 温かな、けれど、記憶の中の体温より、少し低い。
 頬を摺り寄せ、目を閉じた。
 エドワードは目を閉じたアルフォンスを、そうっと、壊れ物を扱うような慎重さで抱き寄せた。
 義手の腕には、伝わらない熱。けれど、首筋にかかる吐息。伝わる鼓動が、夢じゃないと教えてくれる。
 確かな現実。
「兄さん、夢じゃないんだね」
 アルフォンスが涙混じりの声で言った。
 夢じゃないのかと、アルフォンスも疑っていたのかとおかしかった。
 エドワードは強く頷いた。
「ああ、夢じゃない。オレはちゃんとここにいるし、アルもいる。オレの、傍に」
「うん」
 アルフォンスは嬉しさを隠すことなく頷いて、エドワードの体を抱きしめ返した。
 が、ふと思い出して、すぐに体を離した。
「アル?」
 怪訝そうな、不安そうなエドワードに微笑んで、アルフォンスは赤みの残っている頬に指を伸ばした。
 少し、腫れている。
 アルフォンスは後悔に顔を曇らせた。
「ごめんね、痛かったよね?」
「あ……いや、平気。つーか、ウィンリィのバッグが顔面直撃した衝撃が大きすぎて、すっかり忘れてた……」
「あんたが人を心配させるからでしょ! 自業自得。これに懲りて、二度と行方不明にならないでよねっ!!」
「おまえなぁっ……!」
 いきなり割り込んできた声に、反論の声を上げかけたエドワードは、ウィンリィの勝気な瞳に浮かんだ涙に気づいて、気まずげに口を閉ざした。
「あー、なんだ、その……悪かったよ」
「素直なエドって気持ち悪い」
「もしもし、ウィンリィさん?」
「まさか偽物とかじゃないわよね?」
「おい、こら、ちょっと待て……って、ウィンリィ?」
「ちょっと、ウィンリィ!?」
 慌てふためく声をきれいに無視して、ウィンリィはアルフォンスとエドワードのふたりを、同時に抱きしめた。
 温かな体温。
 アルフォンスとエドワードが元の体を取り戻したら、そうしようと。――絶対にふたり同時に抱きしめるんだと、決めていた。
 それなのに、ウィンリィの密かな野望は、達成させるのにずいぶん時間を費やさされた。
 バッグで殴られたくらい、何だというのだ。本当なら、おまけでスパナでも殴りたかったくらいだと、ウィンリィは内心で思う。
 倒れたエドワードの右手の義手と、左足が義足だと気づいたから、殴らなかったけど。
 切なくて、泣き出しそうで、殴れなかったけど。
 ウィンリィはそう思いながら、そっと、目を伏せた。
 けっきょく、エドワードは、禁忌の罪を一人で背負うことを決めたのだろう。
 不器用で優しい幼馴染み。
 ウィンリィは知っていた。
 エドワードが本気で自分の体を元に戻すつもりがないこと。アルフォンスの体を元に戻す。それを最優先事項にしていたこと。罪も罰も、最終的には独りで背負って生きていくつもりだったこと。
 エドワードがそう言ったわけじゃないけれど。
(伊達に幼馴染みをやっていないんだからね)
 心の中で呟いて、抱きしめる腕に力を込めながら、ウィンリィは言った。
 ずっと、ずっと、言いたかった言葉があった。
 エドワードは、もう旅に出ることはないだろう。そしてアルフォンスも。
 だから、やっと言える。
 欲しかった言葉を返してもらえる、そのときが、やっと。
「お帰り、エド。お帰り、アル」
「おう、ただいま」
「ただいま、ウィンリィ」
 照れくさそうに返された声は、変わっていない。
 優しく、柔らかく丁寧に返される声は、変わっていない。
 嬉しくて、それだけで泣きそうになる。
 やっぱり、エドワードとアルフォンスが揃ってここにいてくれないと、落ち着かない。
 もう二度と、手の届かない場所にふたりが行くことはない。
 もどかしい思いで待たなくてもいい。
 そう思いながらもう一度ふたりをぎゅっと抱きしめ、ウィンリィは体を離した。
 照れくささを隠しもしない笑顔を向けると、エドワードがにやりと笑い返した。
 アルフォンスは、にこにこと優しい笑顔を返してくれる。
 成長しても、時間が過ぎても、変わらないものだってある。
 幼い頃は当たり前だった日々が、やっと、ウィンリィの元にも戻ってきたのだと、ウィンリィは実感した。
 実感できた。
「あの」
 久しぶりに三人一緒の空気を満喫していると、遠慮がちに声をかけられた。
 慌てて声の主を振り向くと、困惑顔の、青年。
「あ……」
 アルフォンスが成長すれば、こんな感じになるんじゃないかと思える優しい顔立ちの青年は、ウィンリィの視線を受けてさらに困った顔で首を傾げた。
 優しい色の青い瞳が、一瞬だけ、下に向けられた。
「?」
 なんだろうと思いながら、その視線を辿ったウィンリィは、青年が持ってくれていたままのバッグに気づき、「あ!」と声を上げた。
 慌てて青年に近づき、持たせたままだったバッグを受け取る。
「ごめんなさい、ありがとう」
 重かったですよね、と申し訳なさそうに言いながら、受け取ったバッグをサイドテーブルに置いた。
 アルフォンスに似た青年が、ほっと息をついている。
 その様子を横目に見つつ、あの細腕じゃかなり重たかっただろうなと、少しだけ申し訳なく思いながら、ウィンリィはバッグの止め具を外した。
「ウィンリィ、それ、なに……あ」
 バッグの中を覗き込んだアルフォンスが驚いた声を上げ、その声につられるようにバッグの中を覗き込もうとしたエドワードは、アルフォンスの呟きに動きを止めた。
「機械鎧」
「そうよ、エドの右手と左足。感謝してよね、エド。最新の、最高級機械鎧よ!」
「――それ、もちろん軽量タイプだよな?」
「エド、あんた……まだ諦めてないの?」
「軽量タイプって、それになにか意味があるの?」
「意味があるのって……」
 きょとんと瞬きを繰り返すアルフォンスに、エドワードが眉を顰め、ウィンリィは軽く首を傾げた。
 常にからかいのネタだった『アレ』を、アルフォンスは覚えていないのだろうか?
 首を傾げたまま、ウィンリィはふたりを見つめる。
 視線の先でエドワードは、嫌そうに顔を歪めながら、口を開いては閉じて、をくり返している。
 それを見て、ああ、言いたくないんだなぁ、と、ウィンリィは呆れてしまった。
 エドワードのコンプレックスだから、まあ、気持ちは判らないでもないが、いいかげん十八にもなって引きずっているあたり、
(子供よねぇ)
 そう思わずにはいられないウィンリィだ。
 呆れているウィンリィの前で、エドワードが決意を固めた顔をした。
 多少、顔面の筋肉が引き攣っているようだったが、ウィンリィは気づいていない振りをした。
 エドワードは、引きつりそうになる口元を、無理矢理動かした。
 できれば、言いたくない。
 そう思いながら。
「オレの身長がの……の、伸びないのはっ、機械鎧が重いせいかもしれないって、前にドミニクさんが言っただろう?」
「伸びない」という一言は、やはりさらりと言えなかった。
 屈辱に、体がかすかに震えた。
(ちくしょう、言いたくないことを言わせやがって!)
 内心で毒づきながらアルフォンスの反応を待っていたから、エドワードは気づかなかった。
 ウィンリィが怪訝そうにふたりを見つめていたことに。
「ドミニクさん……?」
 聞き覚えのない名前に、アルフォンスは首を傾げた。
 少しくすんだ色合いの金色の瞳を、そっと空に向ける。
 しばらく空を見つめていたアルフォンスは、やがて、諦めたようにそっと、嘆息した。
 思い出せない。なにひとつ。
 アルフォンスが何かを言うのを黙って待っているエドワードは、不安そうに顔を曇らせている。
 やっと会えたエドワードにそんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「ごめんね、兄さん」
 申し訳なさそうな顔で、アルフォンスはぽつりと言った。
「ボク、記憶がないんだ。母さんを錬成したらしい日からの四年間。兄さんと旅をしていた間のこと、全然、覚えていなくて……」
「覚えて……いない……?」
「うん。体が戻ったときも、十歳のときの体だったって。ボクは、いきなり四年って言う時間が過ぎていて、逆にびっくりした。だって、母さんを錬成する以前のことを、ボクは鮮明に覚えているのに」
 母さんが死んだ日のことや、墓前で、エドワードが言った「母さんを元に戻そう」という言葉。師匠と出会い、死に物狂いで修行に励んだこと。
 それ以前のことだって、アルフォンスは鮮明に覚えていた。
 だから、逆に、四年という時間が過ぎているんだと言われて、混乱した。
 みんななにを言っているんだろう。からかわれているんだろうか、とまで思った。
 けれど傍にエドワードがいないことを、毎日を過ごす中で実感するたびに、失った歳月と時間のことを考えた。
 確かにあった、けれど、いまは空白の年月。
「師匠たちは『等価交換』だろうって」
「等価交換……」
 苦いものを飲み込んだような顔で、エドワードが呟いた。
「その肉体を得るかわりに、四年間分の記憶を持って行かれた?」
「そう……みたいだよ」
「そうか……」
 頷いたエドワードが淋しそうな顔をしたのは、ほんの僅かな間だけだった。
 少しだけ安心したように微笑して、エドワードはアルフォンスを手招いた。
 エドワードに呼ばれるままに、アルフォンスはその体をエドワードに近づけた。
「兄さん?」
 訝しげに呼ぶアルフォンスの声にはなにも答えず、エドワードはその体をもう一度抱きしめた。
「兄さん……?」
「アル、お前が無事に生きていて……元に戻っていて、良かった」
「…………うん」
 震えそうになる声で、アルフォンスは頷いた。
 もう一度小さく「良かった」と呟いたエドワードが、かすかにもらした安堵の息の意味を、問いかけることはできなかった。