12

「母さんを錬成したらしい日からの四年間。兄さんと旅をしていた間のこと、全然、覚えていなくて」
 その言葉を聞いたとき、確かに淋しいと思った。けれどそれは一瞬の感情だった。
 エドワードは、すぐに、ほっとした。
「良かった」
 思わず呟いてしまったほど、アルフォンスがなにも覚えていないことに、安堵した。
 扉の向こう側に持っていかれていた、アルフォンスの体。それと等価交換で失ったらしい四年間の記憶。
 等価交換なら、アルフォンスがあの四年間の間のことを思い出すことはない。
 あの、悲しいことが多かった四年間を……。
 温かな体を抱きしめながら、エドワードは笑った。
 不謹慎だと判っていても、自然と笑みが零れた。
 禁忌を犯したこと。ニーナのこと。ロゼやスカー、ヒューズのこと。ホムンクルス――特にスロウスのこと、賢者の石のことも、エドワードの犠牲になったことも、アルフォンスはなにも覚えていないのだ。
 辛くて悲しかったことのなにもかもを。
(ああ、でも、楽しかったことや嬉しかったことも、お前は覚えていないんだな)
 それは、少し悲しいけれど、アルフォンスが胸を痛めるばかりのできごとを忘れてくれているのは、都合が良いとさえ思った。
 罪も、罰も、なにもかも、エドワードだけが覚えていればいい。
 アルフォンスは、エドワードの愚行に巻き込まれただけだったのだから。
 優しい弟が、過去の出来事に心を痛めて傷を作ったまま生きて行く姿を、エドワードは見たくなかった。
 たとえそれが欺瞞の中だろうと、何も知らず、思い出さず、綺麗な笑顔を浮かべてくれているほうが、いい。
 それがエドワードのエゴにまみれた願いでも。
 甘やかしていることになっても、過保護でも。
 アルフォンスにはきれいな存在でいて欲しい。
 純粋な存在であって欲しい。
 汚いものや醜いものは、すべて。
(オレが背負うから)
 だから。
(アル――)
 お前はそのままでいてくれよ。
 祈り、願いながら――ああ、でも、それは誰に向けての祈りで、願いだったのだろう――、エドワードはそっと瞳を閉じた。

「良かった」
 くり返された呟き。
 けれど、二度目のその呟きは、アルフォンスが無事だったこと、体が戻っていたことに対する「良かった」ではないことに、アルフォンスは気づいた。
(兄さん、ボクがなにも覚えていないことに安心した?)
 エドワードの体を抱きしめ返し、懐かしい体温に包まれ、触れながらアルフォンスは眉を顰めた。
 どうして、エドワードはそんなふうに思うのだろう。
(ボクは不安なのに……)
 胸のうちに生まれている不安が、なにに起因しているのかは判らない。けれど、焦燥が消えない。
 大事なことを、たくさん、忘れたままだ。
 聞いても、誰も教えてくれない。
 だからアルフォンスは、自分がなにをして、どうなったのか、ちゃんと解らないままでいる。
(母さんが死んで、ボクと兄さんは母さんを錬成した……)
 そして、エドワードは片方ずつの腕と足を、アルフォンスは肉体を失い、アルフォンスの魂と錬成し、鎧に定着させてくれたらしいエドワードとふたりで、元の体に戻るために旅に出た。
 旅に出る際に、ふたりで決めて、家を焼いた……。
 その話をしたときに、それほどの覚悟だったんだよ、と、ピナコが悲しそうな顔で呟いた。
 そして、四年という長い時間をかけて、アルフォンスは元の体を取り戻した。
 旅をした間の記憶、時間を等価交換で差し出して……。
 アルフォンスは軽く唇をかみ締めた。
 どんな経緯で、アルフォンスはこの体を取り戻したのだろう。
 誰が、取り戻してくれたのだろう。
 何度考えても、エドワードしか思いつかない。
 エドワード以外の誰が、アルフォンスの肉体を取り戻してくれるというのだろう。
 そして、エドワードは、なにを対価にアルフォンスの肉体を錬成したことになる?
 この話をするたびに、ロゼが辛そうに目を逸らしていた。
 話はしてくれるけれども、絶対に、アルフォンスと目を合わせようとはしなかった。
 あまりにも辛そうで、悲しそうで、申し訳なさそうで、アルフォンスは深く追及できなかったことを覚えている。
(何があったのか聞けば、兄さんは答えてくれる?)
 そっと胸のうちで呟いたものの、たぶん、無理だろうとアルフォンスは溜息を吐く。
 エドワードに聞いても、本当のことは言ってくれない。
 全部、なにもかもをエドワードの心のうちにしまって、たったひとりで背負うのだろう。
 そしてアルフォンスがなにも知らないことをいいことに、綺麗に笑って嘘をつくはずだ。
 なにも預けてもらえない。一緒には背負わせてもらえない。
 安易に想像できるそれに、思わず舌打ちをしたくなった。
 家族なのに他人行儀なエドワードの行動は、あまりにも水臭すぎる。
 沸き起こる苛立ちを押さえ込んで、アルフォンスはエドワードを抱きしめる腕に力を込めた。
「アル? どうした?」
 急に抱きしめる腕に力を込めたことに、エドワードが不思議そうな声を上げた。
「ねぇ、兄さん」
「うん?」
「これからは、前みたいに、ずっと一緒にいられるよね?」
 アルフォンスの問いかけに、エドワードの体が小さく震えた。
 聞かれたくないことを聞かれたように、強張っている。
「兄さん?」
「――アル、オレがいた世界と、この世界がいつまで繋がったままでいるのか、オレには判らないんだ」
 繋がった理由も、解らないまま。
 そもそも、ここは、本当にそれぞれの世界が繋がった場所なのかも判らない。
 そう言ったエドワードに、アルフォンスは不満な顔を向けた。
 なにを言っているんだろう、と、苛立ちが増す。
 困惑しているエドワードの顔を、覗き込んだ。
「この世界以外のどこで、兄さんが生きて行くって言うんだよ? 嫌だよ、ボクは兄さんと離れて生きて行く気はないからね!!」
「オレだってお前と離れて生きて行く気はないさ。でも、いつ……」
「だったら、ここにいればいいじゃないか! ばっちゃんと、ウィンリィと、兄さんとボクと、デンと。ずっと一緒にいればいい!」
 アルフォンスは声を荒げた。
 エドワードが、この世界で生きて行くことにためらいを感じている理由が、わからない。
 まるで、この場所に留まることを、アルフォンスたちの傍で生きて行くことを拒絶しているように。
 今までいた世界こそが、エドワードの生きる世界だと思っているように思えて。
 そんなことを考えて、アルフォンスははっと体を強張らせた。
 覚えたのは、強い拒絶。
 当たり前の顔をして、エドワードの傍らにいたアルフォンスと同じ名前の人。
 彼がいるから、エドワードはアルフォンスたちの元に戻ることを渋っているのだろうか?
「あの人?」
「え?」
「あの人の傍にいたいから、兄さんはここには戻ってきたくないの? ボクの傍には、いてくれない?」
「なにを馬鹿なことを言ってるんだ。アルフォンスは関係ない」
 呆れたようにエドワードは言うけれど、一度芽生えた疑念はなかなか消えなかった。
 アルフォンスの脳裏に、親しげだったエドワードと『アルフォンスさん』の様子がよみがえった。
 エドワードはあの人に心を許しているようだったし、あの人は……。
 眩暈がしそうだった。
 醜く、どす黒い感情がわきあがるのを、止められない。
 嫌だ。
 冗談じゃない。
 エドワードの隣にいるのは――――。
 いままでも、これからも、このさきもずっと、エドワードの隣にいるのは自分だ。
 エドワードの中の特別な位置は、自分ひとりだけでいい。
 他の誰かがエドワードの傍にいるなど、そんなのは許さない。許したくない。
 この感情は、夢の中でも抱いたもの。
 独占欲。嫉妬。偽らざる本音。
 純粋な想い。
 アルフォンスはエドワードの額に唇を落とした。
「アル?」
 唐突な行為に戸惑っているエドワードに、微笑みかける。
「そういえば、ボクはまだ言っていなかったね」
「え?」
「おかえり、兄さん」
 アルフォンスがそう言うと、エドワードが、一瞬、息を詰めた。
「……ただいま」
 一呼吸おいて答えたエドワードの声は、泣き出しそうなほどか細かった。