13 空一面の星空を窓越しに見上げながら、エドワードは溜息をつく。 どうしようかと悩む間もなく、押し切られるような形で泊まることが決定されたのは、つい数時間前――夕食を食べ終えた後のことだ。 アルフォンスは―――ハイデリヒは、居心地が悪そうに眉を顰め、アパートに帰りたそうにしていたけれど、やはり、強引に引き止められて、いまは隣の部屋でおとなしく休んでいるはずだ。 昨日までの不規則な生活と、無理が重なったこと。今日一日いろいろとあったせいだろう。少し辛そうだった。顔色も、心なしか悪かった。 それを思い出して、エドワードは様子を見てこようかと立ち上がった。 心配だった。 もともと彼は丈夫ではないけれど、顔色の悪さが半端じゃない。あれはどこかを悪くしているんじゃないかと、エドワードは無意識に眉根を寄せた。 コンコン、と、遠慮がちにドアがノックされる。 誰と問うより早く、 「兄さん?」 「……アル」 ノックの音が消えると同時に、ひょこんと顔を覗かせたアルフォンスが小首を傾げた。 返事が返る前にドアを開けたことに「ごめんね」と一言謝罪して、苦笑混じりにアルフォンスが言った。 「まだ寝てなかったの?」 「そろそろ休むさ。でもその前にアルフォンス――ああ、ややこしいな。ハイデリヒの様子でも見てこようかと思って。調子が悪そうだったから」 隣の部屋の方向をちらりと見やり、エドワードは一歩を踏み出した。――が、その歩みを、すぐに止めた。 唇を尖らせて、不満そうに顔を歪めているアルフォンスに気づいたからだ。 普段から人当たりの良いアルフォンスにしては珍しく、彼が苦手なようだった。 それも仕方がないとエドワードは、そっと思う。 似ている容姿。同じ名前。 どう接していいのか判らないのだろう。 居心地も悪いのかもしれない。 判っていながら、エドワードは敢えて気づいていない振りを装って、 「なにを不貞腐れてるんだ?」 アルフォンスの傍に寄り、からかうようにその顔を覗き込んだ。 「別に、不貞腐れてなんていないけど……」 「けど、どうした?」 「兄さん、ちっとも一緒にいてくれないから」 唇を尖らせたアルフォンスの言葉に、エドワードは呆気に取られてしまった。 甘えるようなことを言うアルフォンスは、珍しい。 思っても見なかった言葉に、どんなリアクションを返せばいいのか、エドワードは少し悩んだ。 ずっと、一緒にいた。けれど、小さい頃から面倒を見られていたのは、なぜか兄であるエドワードの方で。 傍にいてくれていた。支えられていた。弟の優しさに甘えすぎていると、エドワードはそんなふうに、心密かに思っていたのだけれど。 アルフォンスも、なんだかんだとエドワードの世話を焼きながらも、エドワードに支えられているんだと、甘えているんだと、案外そう思ってくれていたのかもしれない。 お互い、傍にいてくれている、支えてくれている。そう思っていたのかもしれない。 あたたかなものが、胸の中に溢れた。 頬を膨らませている弟の幼い表情に苦笑しながら、エドワードはアルフォンスの髪をくしゃくしゃと掻き撫ぜる。 「ちょ……、もう、なんだよ、兄さん!?」 不満の声を上げたアルフォンスは、しかしエドワードの手から逃れようとはしなかった。 はにかんだように笑んで、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。 「そうだ、兄さん。お願いがあるんだけど」 思い出したと言ったアルフォンスが続けた言葉に、エドワードは首を傾げた。 「お願い? 珍しいな」 「兄さんが帰ってきたら、お願いしようって思ってたんだ」 アルフォンスはそう言って、にっこりと笑った。 「今夜はここで一緒に寝てもいいよね、兄さん」 「は? いや、待て、アル。一緒って……そんな歳じゃないだろう?」 「前はよく一緒に寝てたじゃない」 アルフォンスの言い分に、エドワードはしばらく固まった。 前はって……。 前はって、アル、それは……。 「だから、それは小さい頃の話だろーが」 「兄さんにとってはずいぶん前の話だろうけど、ボクにとってはつい数年前のことだよ」 さらりと切りかえされたそれに、数回まばたきをくり返した後、エドワードははっとした。 元の体に戻ったときは、肉体を失ったときの十歳の姿。そして、四年間の記憶がない。 聞いていた事実を、思い出す。 そうだ、アルフォンスは四年間の記憶を失っている。だから、エドワードには十年前のことでも、アルフォンスにとっては六年前のことになるのだ。 返す言葉を失って、エドワードは気まずげに視線をさ迷わせた。 アルフォンスはそれを困ったように見つめている。 「べつに兄さんを困らせたり、責めたりしているわけじゃないからね。もし、そう聞こえたのなら、ごめん」 「アル、俯くな。謝るな。アルが謝るようなことじゃない」 言いながら、項垂れるように視線を落としたアルフォンスの顔を、上げさせる。 エドワードは、もう一度アルフォンスの髪を掻き撫ぜた。 長く離れていて。ずっと心配させて、探させて。 一緒に寝るなんて、本当に久しぶりで、照れくさいような、くすぐったいような、恥ずかしいような。いろいろな感情が胸の中に生まれたけれど、アルフォンスが望むのなら、それを叶えたいと思う。 誰よりも大事な……。 「そうだな。久しぶりだし……」 「ホント!?」 「あ、あぁ」 「やった」 ぱあっと顔を綻ばせたアルフォンスの、弾んだ声にエドワードは苦笑した。 「あ、でも、ベッドは別だぞ」 「えー」 「えー、じゃない。歳を考えろ、歳を」 不満いっぱいに頬を膨らませたアルフォンスは、けれど、すぐに「仕方ないか」と肩を竦めて了承した。 エドワードが、乱してしまったアルフォンスの髪を指先で整えて、弟が部屋に入りやすいように体の位置をずらす。 招き入れられたのだと悟ったアルフォンスは、にこにこと嬉しそうな笑顔で部屋に入ってきた。 迷うことなく片方のベッドに近寄り、ちょこんと座る。 記憶はなくても無意識に、以前、まだ鎧姿だった頃に自分が使っていたベッドに座ったアルフォンスに、エドワードは目を細めた。 あの時は、どんな話をしたのだったか。 きっと小さい頃の思い出話とか、旅の間のいろいろな話を思いだしていたのだと思うけれど、よく思い出せない。 もしかしたら、賢者の石の話をしていたのかもしれない。 あの頃はとにかく、毎日、アルフォンスの体を元に戻すことばかりを、考えていたような気がする。 それだけしか頭になかった。それ以外、考えなかった。 そう言っても過言じゃないくらい考えていたのは、弟のことばかりだった。 「兄さん、なにを考えてるの?」 エドワードを見上げる瞳に、怪訝そうな色がちらついている。 「……いや、なんでもない」 鎧姿だったときのアルフォンスとのことを思いだしていた、とは言えなくて、エドワードは誤魔化すようにゆるゆると首を振った。 そして、ハイデリヒの様子を見に行こうとしていたのだと、思い出す。 ハイデリヒはちゃんと休んでいるだろうか。休めているだろうか。 案外ロケットのことばかり考えていて、休んでいないんじゃないだろうかと少し心配になる。 「アル、ちょっと、待っていてくれよ」 「ん、うん? なにか用事?」 「ア……ハイデリヒの様子を見てくる」 「え?」 アルフォンスが眉を顰める様子に、どうやらハイデリヒのところに行くのが気に入らないのだと悟ったけれど、エドワードは気にせずに言った。 「調子が悪そうだったって、さっき言っただろ?」 「……言っていたね。でも調子が悪そうだったなら、案外、もう休んでるんじゃないかな?」 「かもな」 エドワードは肩を竦めつつ、頷いた。 「でも、気になるから見てくる」 そう言いながらドアを潜ろうとすると、アルフォンスがずいぶんと硬い声で言った。 「いかないでよ、兄さん」 呼び止める声にくるりとふり返ったエドワードは、アルフォンスの真剣な眼差しに、息を飲む。 厳しい顔をしている弟を、わけが判らずじっと見つめる。 なぜそんな怒ったような顔をして、そんなことを言うのだろう。 訝しく思いながら首を傾げると、アルフォンスの表情が和らいだ。……和らいだというよりは、泣き笑いの顔になったというべきか。 「アル?」 「……ううん、ごめん、なんでもない」 ふるふると首を横に振って、アルフォンスが目を伏せた。 「アル、どうした?」 問いかけても、アルフォンスは「なんでもないよ」と首を振って答えてくれない。 アルフォンスの考えていることが判らなくて、エドワードは途方に暮れる。 以前はもう少し、互いのことがわかっていたのに。 「言ってくれないとわからない」と、言いかけた言葉を、エドワードはとっさに飲み込んだ。 やっと、会えた。少し手を伸ばせば触れられる場所にいる。 それなのに心がわからないと、こんなにも遠く感じてしまう。 不安になってしまう。 これは、やっぱり夢なんじゃないかと。 目が覚めたら、あのミュンヘンにあるアパートの部屋で、触れた温もりもなにもかもが、ただの夢だったんだと思い知るだけなのだろうかと、押し寄せた不安に、エドワードの体が震えた。 「兄さん?」 訝しんでいるらしいアルフォンスの声に、けれど、エドワードは返事も返せない。 怖くて、怖くて。 触れた温もりを、夢のなかでまで失うのかと思うだけで、呼吸まで止まりそうだった。 無意識に手を握りこんでいたらしく、ぎし、と右手が軋んだ音を立てて、エドワードははっとなった。 昼間に、ウィンリィに新しくつけてもらった機械鎧だ。それが軋んだ音。 右手に視線を落として、息をつく。 大丈夫だ。夢じゃない。大丈夫。 安心しながら、心の中でエドワードはくり返した。 機械鎧を装着したときのあの痛みは、夢なんかで再現できるものじゃない。 だから、これは夢じゃない。夢なんかじゃないんだ。 皮肉なことに、機械鎧に勇気づけられた。 「兄さん?」 アルフォンスの声に、エドワードは顔を上げた。 「大丈夫? 腕が痛むの?」 眉を顰めているアルフォンスは、自分のほうが痛そうな顔をしている。 心配そうな顔の弟に、エドワードは笑いかけた。 「大丈夫だ。なんでもないから、心配するなよ」 「でも……」 「本当に、なんでもない。ただ、ちょっと」 「ちょっと、なに?」 「オレの右手にはウィンリィが造ってくれた機械鎧がついていて、これは夢じゃない。オレは、アルたちがいる世界にいるって、そう思っただけだ。腕や足が痛むわけじゃない」 「そう」 ほっと安心した顔のアルフォンスに、エドワードはもう一度笑いかけた。 「アル」 呼びかけると、 「なに?」 柔らかくて、耳に心地好い音が答えてくれる。 待ち望んでいた、声。 もう、失いたくないと思う。 離れられないと思う。 そう思う気持ちと同時に存在するのは、この世界から、いつ、またはじき出されてしまうのだろうという思い。 ミュンヘンの、あの、居心地がいいけれど、エドワードの見ている夢の中のような、少しくすんだ世界へ。 ミュンヘンの街が嫌いなわけじゃない。住みにくいわけでもない。 あの場所にもエドワードを温かく迎えてくれる、優しい人たちがいる。それなりに毎日は楽しい。けれど、楽しくてもやっぱりそれはそれなりで、付きまとう孤独感は消えなくて、エドワードは異郷の街でひとりだと感じてしまう。 どれだけ探しても、リゼンブールという名の村はない。だから帰る場所もなく、心を預けきってしまえる人もいない。 背中を預けてきた弟もいないあの場所は、エドワードの目には色褪せて映る。 「……ごめん、兄さん」 唐突にアルフォンスに謝られて、エドワードは目を瞬いた。 アルフォンスは自嘲の混じった笑みを張り付かせて、もう一度、言った。 「ごめんね、兄さん。我儘を言ったりして」 「え?」 「アルフォンスさんの様子、見に行くんでしょ?」 「――アル?」 アルフォンスの態度の急変に、エドワードは戸惑った。 バツが悪そうな顔でエドワードを見返し、アルフォンスが言った。 「笑われるのを覚悟で言うけど、アルフォンスさんに嫉妬したんだ」 「嫉妬?」 意味が判らなくて、エドワードはきょとんとなったが、アルフォンスがかまわずに言葉を続けたから、黙ってそれを聞いた。 「兄さんを取られたって言うか、取られるような気がして、我儘を言っちゃったんだ。困らせるつもりはなかったんだけど、ボク、今日は兄さんを困らせてばかりだ」 「ごめん」とまた謝罪をされて、エドワードは首を振った。 謝られなければならない理由じゃない。そう思ったからだ。 「気にしなくてもいい」 エドワードはそう言おうとして、しかし、続いたアルフォンスの言葉にそれを遮られた。 「だけど――ねぇ、兄さん。兄さんを取られてしまうって不安に思って、嫉妬するくらい、ボクはきっとアルフォンスさんが羨ましくて、嫌いだよ」 「……アル?」 はっきりとアルフォンス・ハイデリヒを嫌いだという弟を、凝視する。 その真意を知ろうとするように。 「兄さん」 柔らかな声、耳に心地好く、響く。 「兄さん、好きだよ」 まるで絡め捕ろうとするように、柔らかな微笑みが見つめる。 「好きだよ」 くり返された言葉は、柔らかく。 いつまでも、ずっと、サイレンのように響いた。 |