15

佇む姿を、少し離れた場所から眺めた。
 ずいぶんと淋しそうな横顔だと、アルフォンスは思う。
 ――否、あれは淋しそうな顔、それだけじゃない。
 あれは、後悔。懺悔。それから、……弔い、だろうか。
「エドワードさん!」
 アルフォンスは大きな声を上げてエドワードを呼んだ。
 ゆっくりと、エドワードがアルフォンスをふり返る。
 バツが悪そうな顔をしてから、目を閉じる。
 それはエドワードが表情を切り替える儀式だ。
 無意識に行われているらしい仕草を、アルフォンスはそう思っていつも見ている。
 エドワードの姿から視線をずらして、アルフォンスは焼け跡の残骸を見つめた。
 その場所は、かつてエドワードと彼の弟の家があった場所だと、彼らのいまの保護者であるピナコが教えてくれた。
 詳しいことは、誰も語らなかった。けれど周囲と、そしてエドワードの空気から、重々しい過去があるのだと察せられた。
 だからアルフォンスは、なにがあったのかは、聞かないことにした。
 いつか、エドワードの口から、詳しく語られることを待とうと、そう決めて。
「アルフォンス?」
 ゆっくりと近づいてきていたエドワードが、怪訝そうにアルフォンスの顔を覗き込んでいる。
 エドワードの顔を見返し、アルフォンスはなんでもないと言うかわりに、ゆっくりと首を振った。
「黙って出てきたでしょう?」
 そう言うと、エドワードが落ち着かなさげに視線をさ迷わせる。
 それに笑いながら、アルフォンスは
「弟さんが心配していましたよ、エドワードさんがいないって」
 そう言った。
 エドワードの表情が、少し、曇る。
 なぜそんな顔になるのかが判らず、アルフォンスは首を傾げた。
 喧嘩でもしたのだろうか。ああ、そういえばエドワードの弟の様子も、なんとなくおかしかったな。そう思いながら口を開こうとしたときに、エドワードの唇から重く吐き出された溜息。
 ああ、やはりなにかあったんだなと、アルフォンスが気遣うように見ていると、その視線に気づいたエドワードが苦笑を浮かべた。
「ばっちゃんにはちゃんと言ってきたんだぜ。でも、お前が迎えに来るとは思わなかった」
「本当は弟さんが来るはずだったんですけど、電話がかかってきたので」
「なるほどな。すぐには切れない電話だった?」
「ええ。だから代わりに、僕に迎えに行くように、って。ピナコさんがそうおっしゃったときの弟さんの拗ね方は……、ちょっと可哀相なくらいでしたよ」
「びっくりしただろ?」
 突然、エドワードがそう言った。
 アルフォンスはその唐突さに、目を瞬いた。
「え? なにが、です?」
 自分でも間抜けた声だと思いながら問い返すと、エドワードの苦笑が深まった。
 ひょいと、おどけた仕草で肩を竦めて、エドワードは言った。
 少し、自嘲気味な口調だ。
「オレも、……アルも、全然兄弟離れできていなくて、驚いただろ」
「ああ」
 そのことですか、とアルフォンスも苦笑い、頷いた。
「エドワードさんの意外な一面に驚きました」
 茶目っ気を含ませて言うと、エドワードがまた肩を竦めた。
 そして、肩越しに背後を振り返る。
 エドワードの眼差しは、焼けた残骸ではなく、遠いところを見つめていた。
 遠い場所――遠い時間。過去に思いを馳せている眼差し。
 アルフォンスは、その瞳を良く知っていた。
 ミュンヘンで。アルフォンスが生まれた世界に在ったミュンヘンで、よく見た瞳だった。
 けれど、今見た瞳には、ほんの少し苦渋が混じっていたように思えたから、いつも見ていた瞳と同じだとは、言い難いかもしれない。
 そんなことを考えながら、見守るようにエドワード横顔を見ていると、アルフォンスの視線の先で、何かを振り切るように、エドワードが頭を振った。
 アルフォンスに向き直ったエドワードが、口を開いた。
「オレとアルは、母親の死を穢した共犯者なんだ」
「え?」
「正しく言えば、オレが、アルを巻き込んだ」
「エドワードさん?」
 なにを言われているのかわからず、アルフォンスは戸惑った。
 戸惑いながらエドワードを見つめていると、深い、深い微笑がその面に浮かんだ。
 アルフォンスとは一歳しか違わないはずなのに、まるで、ずいぶん年上の……、老成した人のように思える笑みだった。
「オレ、錬金術の話をしただろう?」
「……ええ」
 機械技術よりも、錬金術の発達していた世界。そこがエドワードの生まれ、育った世界だと、幾度となく聞かされた。
 ずっと、エドワードの夢の話だとアルフォンスは思っていたけれど。
 アルフォンスはゆっくりと周囲を見渡した。
 リゼンブールという、見知らぬ場所。
 昨日のいまごろは、まだベッドの中にいて、エドワードに「早く朝食を食べろ!」と煩く言われていた。
 まだ、たった一日しか過ぎていないのに、いまアルフォンスはずいぶん遠い場所にいる。
 エドワードに視線を戻すと、複雑な表情をしていた。
 きっと、以前の自分を思い出し、その状況に重ね合わせて、言葉を探しているのだろう。
 気を使わなくていいのに。そう思ったけれど、口には出さなかった。
「すみません、話を中断させましたね」
「いや」
 ゆっくりと首を振ったエドワードは、表情を改めて、少し硬い声で言った。
「少し長い話だけど、付き合ってくれるか?」
「ええ、かまいませんよ」
「悪いな」と先に謝ったエドワードは、話し出した。
「オレとアルは小さい頃から錬金術が得意だった。いろいろなものを錬成して、――母さんに褒められたかった。喜ばせたかった」
 母さん、と言ったときのエドワードの顔はとても無防備で、穏やかだった。
 とても好きだったのだと判る顔。
 見ているアルフォンスの心まで、温かくなるような気がした。
「でも、母さんが死んで、オレはそれに耐えられなくて……」
 言葉を途切らせたエドワードの表情は、さっきとは反対で、とても苦しそうだった。
 深く眉間に皺を寄せて、耐えるように唇をかみ締めている。
 ぎゅっと握り締められた手は、力を込めすぎて色を失っていた。
 かける言葉を、アルフォンスはみつけられない。
 そして、エドワードも言葉を待っているようではなかった。
 しばらく、無言の時間が続いた。
 呑気な鳥の啼き声が、耳朶に届く。
 どれくらいそうしていただろう。
 痛みだとか、苦しみだとか、悲しみ。そういった諸々のものをなんとか消化したらしい。エドワードが「すまない」と小さく言って、話を続けた。
 長い、長い、話を。
 俄かには信じられない話を。
 母親を生き返らせようとしたこと。
 等価交換で、肉体の全てを持って行かれた弟の魂を、鎧に定着させたこと。そして、エドワード自身は左足と右腕を、失ったこと。
 元の体に戻るために。弟の肉体を取り戻すために、国家錬金術師になり、賢者の石を探す旅に出たこと。
 賢者の石の情報を追いかけているうちに、人造人間に出会ったこと。彼らとの戦い。その戦いの最中、賢者の石に錬成された弟が、エドワードを助けるために消えたこと。
 消えた弟を取り戻すために、エドワード自身を対価に錬成を行い、扉を越えたことを。
 四年間のできごとを、エドワードは淀みなく、淡々と語った。
 まるで夢物語のようなその話が、作り話でも夢でもない真実だと、ハイデリヒはやっと受け止められた。
 エドワードには右腕と左足の膝から下がなく、出会った頃から義手と義足だった。彼が傷跡を隠すことがなかったから、アルフォンスはその痕を何度か見たことがある。
 千切り取られたような傷跡。
 てっきり戦争で失ったのだと思っていたけれど、あれは彼らの言うところの『分解された』痕だったのか。
「錬金術……」
 衰退したそれは、アルフォンスには馴染みがない言葉だ。それを唇に乗せるが、どうにも想像がつかない。現実味はまだ薄い。
「見せてやろうか?」
 不意に、ニッと笑ったエドワードが言った。
「え?」
「錬金術。久しぶりだから、上手くできる保証はないけど」
 悪戯っぽい口調で言ったエドワードが、ぱん、と両手を合わせた。
 その動作に、アルフォンスは軽く目を見張った。
 知っている。
 それは夢の中で見た動作だ。
 打ち合わせた両手を、エドワードは地面に置いた。
 それを追いかけるように、アルフォンスは視線を落とす。
 青白い光が生まれて、エドワードが手をついた場所から、ゆっくりとなにかが……。
「あ!」
 アルフォンスは声を上げた。
 見慣れた物体。
「小型ロケットの模型……」
 エドワードに手渡された小さなおもちゃを、アルフォンスはしげしげと眺めた。
「どうやって……、もしかして、土からこれを?」
「そう。土に含まれている鉄分を利用して錬成した。錬金術は理解、分解、再構築からなる。オレはロケットの研究をしていたから、それの構造を知っているだろ。だから、それをつくれたんだけどな」
「まるで魔法だ」
 アルフォンスが言うと、エドワードが眉を顰めた。あまり聞きたい言葉ではなかったらしい。
「それ、この世界でもよく言われるけど、錬金術は立派な科学なんだぜ。魔法じゃない」
 案の定、不満そうな声で反論されていると、
「一の質量からは、一のものしかつくれない」
 不意に割り込んできた声。
 アルフォンスはふり返った。
 いつの間に来たのだろうか。にこやかな笑みを浮かべたエドワードの弟が、立っていた。
「材料があれば。そして、つくりだすものを理解していれば、錬金術でものをつくり出すことはできるけれど、なにもない状態、つくりだすものを理解していない状態では、なにもつくれない。つくり出せない。術者の力量も、もちろん関係ありますけど」
 そう言って、エドワードの弟はにっこりと笑った。そしてアルフォンスの手の中の模型を覗き込み、エドワードへと視線を移した。
「すごいね、兄さん。錬金術を使うのは、久しぶりなんだろ?」
「まあな。だけど、あんまりオレを見くびるなよ?」
 不敵な笑みを浮かべたエドワードに、彼の弟が「わかってるよ」と肩を竦めた。
「兄さんが努力型の天才だってことは、ボクが一番良く……誰よりもよく知っているよ。それこそ兄さんよりもね」
 そう言ったエドワードの弟の笑顔は、誇らしげなものだ。
 エドワードも照れくさそうにしながら、それでも嬉しそうに顔を綻ばせている。
 そして、アルフォンスの存在など忘れたように、ふたりは錬金術の話をしはじめた。
 ふたりの話は、アルフォンスにはさっぱり判らない。
 話に割り込めるはずもなく、そのまま聞いていても仕方がなく。だからと言って、黙って立ち去ることにも気が引けて、所在無いな、と思いながら、アルフォンスはふたりから視線を逸らし、手の中の模型に視線を落とした。
 ずしりと重い、ロケットの模型。
 アルフォンスの夢を叶えるものの、模型。
 軽く溜息をついた。
 かつてはエドワードも見ていた、宇宙への夢。同じ夢を見ることはない。もう二度と。
 アルフォンスと違い、エドワードはロケットを作り、宇宙に出たかったわけではないのだと、わかってしまった。
 ロケットと宇宙を媒体に、彼はずっと帰りたかったのだ。この場所に。弟のいる、この世界に。
 宇宙に行きたかったわけじゃない。宇宙という特別な場所が、自分が元いた世界に。弟のいる世界に繋がっている可能性を、エドワードは信じていたのだろう。
 そして、弟のいる世界に帰ってきたエドワードには、宇宙もロケットも、もう必要のないものだ。
 アルフォンスの手の中にあるロケットの模型も、ロケット作りに未練があるからつくったのではなく、錬金術を見せるために、アルフォンスにも判るものをつくった。それだけのこと。
 視線を上げると、エドワードの表情は生き生きとしていた。
 出会った頃の。まだ、ロケットに夢を見ていた頃のエドワードを、アルフォンスは思い出した。
 きれいな瞳の、輝き。その表情。
 見つめていると、切なさが湧き上がってきた。
 ずいぶんと長い間、アルフォンスはエドワードのそんな表情を見ていなかった。
 なにかを諦めかけた瞳と、その表情。今なら、エドワードが諦めかけていたのは、弟のいる世界に戻ることだったのだと、わかる。
 アルフォンスを見るときの瞳の意味も、ここに来て。彼の弟に会って、解ってしまった。
 エドワードは、ずっと、アルフォンスと彼の弟のアルフォンスを重ねて見ていたのだ。
 ずっと、不思議だった。
 常に他者と距離を置いているエドワードが、なぜアルフォンスの傍にだけいるのか。アルフォンスだけ傍に寄せ付けているのか。
 離れてしまった弟の代わり、だったのだ。
 アルフォンス個人を信頼してくれていたからじゃなかったのだ。
 暗く、後ろ向きの思考が、アルフォンスの胸の中を侵食する。
 じわじわと広がる思考を押し留めるように、ぎゅっと目を瞑った。
 いやだ、こんな……嫉妬なんて感情は。それにこんなふうに、知りたくはなかった。
 エドワードの中の、アルフォンスの――自分の位置を。
 これでは、「好きだ」と告げることもできない。
 諦めることも、吹っ切ることもできそうにない。
 でも、仕方がないと諦めてしまう気持ちもある。
 遠くを見つめてばかりの瞳。アルフォンスを見つめる一瞬に浮かぶ感情。
 エドワードが望んでいたもの。
 息苦しくなった気がして、アルフォンスは息を吐き出した。
 新鮮な空気を取り込もうと深呼吸をしかけたところで、焼け付くような痛みを覚えた。
 もう何度も経験しているけれども、慣れない痛み。
 顔を顰めると同時に、ごほ、と、乾いた咳が零れた。
 視界の端で弾かれたようにエドワードがふり返ったのが見えて、アルフォンスはとっさに笑顔を浮かべてみせた。
 心配そうな声がかけられるより先に、アルフォンスは口を開いた。
「大丈夫です」
 向けられる心配を撥ねつける。
 そんなものは、いらない。
「エドワードさん、僕は家に戻ります」
「アルフォンス?」
「そろそろ薬も切れる頃だし、病院に行かないと。それに今日は、研究室に顔を出す約束をしていたので」
「でも、お前、そんな顔色で!」
「大丈夫です」
 くり返した言葉の語気は、アルフォンスが思っていた以上に強くなった。
 びくりと肩を揺らして、エドワードが口を閉ざす。
 傷ついたように歪められた顔。
 それを一瞥して、アルフォンスはエドワードの弟に視線を向けた。
 顰められた眉。エドワードを拒絶したアルフォンスへの反感の表れだろう。
 それから、なぜか、少し心配そうな瞳。
 ああ、もしかしたら、彼は病気で亡くなった母親を、思い出したのかもしれない。だから、心配そうなのだ。
 ――でも、そんなものは、いらない。
 焼け付く痛みを無理にやり過ごして、アルフォンスは笑った。
「アルフォンスくん」
「あ……はい?」
 戸惑いを隠せない表情で答えた少年を、アルフォンスは目を細めて見つめた。
 利発そうな表情。自信に溢れた、瞳。
 アルフォンスとアルフォンスは、似ていない。
 そんな自信に溢れた瞳を、アルフォンスは持っていない。持てない。
(だから、彼と僕は似ていませんよ、エドワードさん)
 心の中で呟いて、アルフォンスは少年に向けて言った。
「昨日はお世話になりました。また、機会があったらエドワードさんと一緒に訪ねてきて。僕らの造るロケットを見せてあげるよ」
 そう言って差し出した右手を、エドワードの弟は躊躇いながら握り返した。
 少年特有の手は、なぜか少しひんやりとしているように思えた。
 手を離すときに、少年の眉根が怪訝そうに寄せられていた。それを無視してアルフォンスは踵を返す。
 ふたり分の視線を背中に感じたけれど、アルフォンスは振り返らなかった。
 胸の痛みは、激しさを増した。