16

 数日前、たった一晩だけ使用された、けれどいまはもう、がらんとした部屋の中を、エドワードはぼんやりと見つめていた。
 アルフォンス・ハイデリヒがいないという現実に心が追いついていないせいか、思考が纏まらない。
 ただ、馬鹿みたいに「大丈夫だろうか」と思うだけだ。
 ピナコとウィンリィに挨拶をして、アルフォンスは帰ったらしい。
 律儀なやつだな、と苦笑を零して、エドワードは顔を歪めた。
 次に自分が取る行動に迷ったからだ。
 アルフォンスに会いに行ってみようと思って、エドワードは一度、ミュンヘンとリゼンブールを繋ぐ道まで行ってみた。
 ミュンヘンとリゼンブールの街を繋いだ道は、消えていなかった。ちゃんとあの日のまま、残っていた。
 けれど、どうしても足が前に動かず、進めなくて、わけの判らない恐怖に支配されて、エドワードは踵を返した。
 足早にロックベル家に戻り、あの道のことをウィンリィに尋ねると、呆れを隠さない口調で言われた。
「なにを馬鹿なこと言ってるの。あの道は昔からミュンヘンの街につながっていたでしょ?」
 あの道は消えていなかったわけではなく、もとからあった道だったようだ。
 つまりここは、リゼンブールとミュンヘンが同時に存在し、錬金術と機械技術が同時に発展した世界。
 ウィンリィの言葉に軽く瞠目して、エドワードは顔を伏せた。
 錬金術の使える世界の『エドワード』は、ここでも相当の馬鹿だったのだ。
 弟を巻き込んで人体錬成をし、エドワードと同じように旅に出て――そして、二人一緒に行方不明……。
 口元に浮かんだのは、自嘲の笑みだった。
 まったく、救い難い馬鹿だ。
 史上最年少だの、天才だのと言われ続けてきたけれど、本当は錬金術との相性が悪いんじゃないかとさえ思えてくる。
 そして、術者としてとても未熟なのだ。きっと。
 部屋の中をもう一度見渡して、エドワードはドアを閉じた。
 ゆっくりと廊下を歩きながら、溜息を零す。
 まったく、扉の向こう側はエドワードの想像を超えている。
 辻褄合わせの世界。
 そんな印象を強く感じる。
 階段を下り、ダイニングに下りる。
 壁のボードに飾られた写真に目を向けて、エドワードは顔を顰めた。
 この世界が、もうひとつの世界だと気づかなかった理由のひとつ。
 エドワードの生きていたリゼンブール。そこにあったピナコの家。
 そのすべてとなにひとつ変わらず存在している、もの。
 小物も、人も、そして記憶も、生きてきた軌跡さえ……。なのに、『違う人間』が確かに存在した。
 そっと写真に触れた。
 少し陽に焼けて色褪せた写真。
 ウィンリィやアルと一緒に撮った写真。
 父母と、幼いエドワードとアルフォンスが一緒に写っている写真。
 一枚として、変わらない。配置も、枚数も。すべてそのまま。エドワードが知っているままだ。
 それなのに、ここは違う。
 エドワードは、泣き出しそうなウィンリィの声を思い出した。
 アルフォンスがミュンヘンに戻った日のことを。そのときのウィンリィとの会話を、エドワードは思い出した。
「わたしの知ってるエドとアルじゃないんだね」
 突然そう言って、ウィンリィは顔を伏せた。
 微かに震えている肩に気づいて、いつもみたいに「泣くな」と言おうとして、やめた。
 それは、エドワードの役目ではなく、この世界に存在していたエドワードとアルフォンスの役目。そう思ったからだ。
 ウィンリィが泣き止んだ頃に、エドワードは「違う」と思った理由を訊ねてみた。
 目を真っ赤にしたウィンリィは、とても悲しそうに言った。
「ふたりとも帰ってこなくて……ずっと、何年も行方不明だった。でもアルはイズミさんに会ったことがある口ぶりで……。だけど、イズミさんはアルに会ったなんて言っていなかったのに、って」
 泣くのを堪えて言ったウィンリィに頷いて、エドワードはそれ以上の会話を打ち切った。
 謝罪を口にしようかと思ったけれど、それは違う気がして、結局黙っていた。
 でも、一言、
「機械鎧、ありがとうな」
 そう言うと、ウィンリィは笑って頷いてくれた……。
「兄さん」
 呼びかけられて、我に返ったエドワードはふり返る。
 複雑な表情でアルフォンスが立っていた。
「どうしたんだよ、アル?」
「うん……」
「アル?」
「なんか、信じられなくて……」
「ここが別の世界だってことが、か?」
「うん」
 神妙に頷いたアルフォンスに、エドワードは「そうだよな」と同意した。
 エドワードにも覚えがある。
 自分が見ている夢じゃないのか。
 目覚めることのない、長い、永い眠りの中で見ている夢。
 醒めない夢。
 確かにそこにいるのに。生活をしているのに、生きているということが実感できない。
 だから、夢だと思ってしまう。夢だと思ってしまいたくなる。
 心のどこかでそれが逃避だと判っていても。
「でも、現実なんだよな」
「そうだね」
 どんなに信じられなくても、受けいれられなくても、事実は変わらない。
「アルフォンスさん、大丈夫かな」
「え? あ、あぁ……そうだな」
「様子、見に行かないの?」
「……どうしようか、考えてた」
「そう……」
 微笑むように笑って、アルフォンスは黙り込んだ。
 しばらく黙って、ふたりは佇んでいた。
 どれくらいそうしていたのかは、わからない。
 エドワードは、左手に擦り寄る温かさに気づいて、視線を落とした。
「デン」
 甘えるように、あるいはエドワードを慰めるように鼻先を摺り寄せるデンの頭を、そっと撫でる。
 しばらくそうしていると、
「兄さん」
 緊張した声で、アルフォンスに呼びかけられた。
 エドワードは視線を上げて、弟を見た。
 躊躇うような。なにを怖がっているのか、怯えるような表情で、アルフォンスはエドワードを見つめている。
 アルフォンスは何かを言いかけては止め、言いかけては止め、を数回繰り返し、「なんだよ?」と焦れたエドワードが問いかけると、やっと言う気になったらしく、口を開いた。
「兄さんは、やっぱりアルフォンスさんのことが好きなの?」
「嫌いだったら、あいつの家に転がり込んで、一緒に生活しようとは思わないな」
「一緒に……?」
 アルフォンスの眉根が、不満そうに寄せられた。
「兄さん、あの人と一緒に住んでるの? はじめて聞いたよ」
「あれ、言ってなかったか? 親父がまたふらふらとどっかに行っちまって。義手と義足は意外に不便だし、あっちの世界でひとりだと心もとないから、アルフォンスのところに転がり込んだんだ」
「父…さん……?」
 目を見張ったアルフォンスが、呆然とくり返した。
 エドワードはしまったな、と肩を竦める。
「悪い、それも言い忘れていたな。あいつ……親父も門を超えた世界にいたんだ」
「どうして、そんなところに……」
「ライラと戦った結果らしい――っても、アルは覚えてないか」
「うん、なにも覚えてない」
 ふるふると首を振って、アルフォンスが唇をかみ締める。
 なにも覚えていないことを悔しがっている仕草に、エドワードはけれどなにも言えず、そっとアルフォンスの頭を撫でた。
 頭を撫でると、アルフォンスが小さく微笑んだ。
「ボクも父さんに会えるかな」
 ぽつりとアルフォンスが呟いた。
 アルフォンスは写真でしか父親を知らない。鎧姿のときに一度会っているが、覚えていない。それを思い出して、エドワードは苦く顔を歪める。
 正直、いまでもあの父親のことを許せていない。けれど、思っていたよりはマシなやつで……嫌いじゃない。
 アルフォンスにも会わせやってもいいと思う。思うけれど、父親がまたも行方不明では、会わせてやろうにも会わせてやれない。
「あの馬鹿親父……」
 いまごろどこをふらふらと歩いているのか。
 それとも。
 ふと、嫌な予感がエドワードの頭の隅を掠めた。
 もう、寿命が少ないと言っていた。
 母の愛した姿で逝くつもりだと……。
 もしかして。
 そう思う一方で、そんなはずはないと否定する。
 そんな簡単にくたばるようなやつじゃない。――そう信じたい。
「ごめん、兄さん」
「アル? なにを謝ってるんだ?」
「また、無理なことを言ってしまったから……」
「無理って?」
「父さんに会いたい、って。またいなくなった人に会えるわけがないのにね」
 力なく微笑む姿に、エドワードは、唇をかみ締めた。
 目の前で、途方に暮れたように立ち竦む姿に、エドワードは手を伸ばした。
 ぎゅっと抱きしめる。
「兄さん?」
「アル、オレがいるから。オレは、お前の傍にいるから……」
 だから、そんなふうに。世界にひとり取り残されたような顔で、佇まないで欲しい。
 エドワードの体を、アルフォンスの腕が優しく抱きしめ返した。
「うん、ありがとう、兄さん。ボクも兄さんの傍にいるよ。ずっと、一緒にいる」
 耳元に囁くように落とされた言葉に、エドワードは目を閉じる。
 優しく浸透する声。
 けれど、その声の紡ぐ言葉の意味を、エドワードはもう知っている。
 正しく、ずっと、一緒に。
 兄弟であるという枠を越えて。
 アルフォンスがエドワードに望んでいるのは、そういうことだ。
「ねぇ、兄さん」
 歌うようにかけられた声に、自然と身体が強張った。
 ああ、逃してはくれないのだと嘆息する。
「答えてくれる? 兄さんは、アルフォンスさんが好きなの? ボクが兄さんを好きなのと同じ意味で……」
「――……そんなふうに、考えたことがない」
「そう。でも、アルフォンスさんは、兄さんのことが好きだよ。ボクと同じ意味で」
 知っている、と言いかけて、エドワードは口を噤んだ。
 知っている。向けられている気持ち。好意。その意味。
 知っていて、気づいていて、甘えていた。依存してきた。そうすることが当然のように。
 傲慢に。
 残酷に。
 けれどそれは、弟であるアルフォンスに答えることではないと、そう思ったから、エドワードはそのことについては黙っていた。
「アル」
 呼びかけると、アルフォンスが首を傾けるような仕草をした。
 幼い仕草だ。
 空白の四年間を、アルフォンスは生きている。エドワードが奪い取った肉体の時間を、生きなおしているといったほうがいいのかもしれない。
 これもまた、罪の証なのかもしれない。
 けれど、その罪を贖うために応えるのでは意味がないだろう。
 アルフォンスが欲しいのは、そういうものではない。
 そんなことを考えながら、エドワードが口を開いた。
「アル。オレは、お前が好きだ。でも、それはお前とは違う意味で……肉親に向ける愛情でしかない」
 触れたいと願い、思う。
 会いたいと願い、思う。
 傍にいたいと思う。願う。
 傍を離れたくない。離れて生きることはできないと、思う。
 けれど、そこに肉親以上の感情が、はたして介入しているのかどうか。
 突然すぎて。考えたこともないことを、突然、考えろといわれても考えられない。すぐには答えが出せない。
 ただ、会いたかっただけ。
 触れたかっただけ。
 温もりを、吐息を、感じたかった。 
 思い、願い、考えていたのは、それだけだった。
「そうとしか答えられない……」
「そう……」
 力なく微笑んで、アルフォンスは俯いた。
 けれど、すぐに顔を上げて、エドワードを安心させるように笑って言った。
「ねぇ、兄さん。ゆっくりでいいから、考えて。ボクのこと」
「アル、でも……」
 オレたちは兄弟で。その前に男同士で。
 そんな当たり前のことを言おうとしたけれど、エドワードは口を噤んだ。
 そんなこと、アルフォンスだって解っている。解っていて、それでも望む気持ちが強いから、心をエドワードにくれようとしている。
 そして、もうひとりのアルフォンスも、当たり前のことを超えて、好意を示してくれている。
 ただ、純粋な気持ちがあるだけだ。
 好きという気持ちのまえでは、禁忌だとか、背徳だとかに意味はないのだろう。
 兄さん、ともう一度呼びかけられると、淡く微笑むアルフォンスが、エドワードを見ていた。
「兄さん、ボクのこと、気持ち悪いって思った?」
「そんなこと思うはずがないだろうっ!?」
 強く否定すると、ほっとしたようにアルフォンスが笑った。
「よかった」
 と、呟いて、
「だったら、考えてみて。ボクの気持ちのこと。兄さんがボクをどう思っているのか、考えてみて」
「……わかったよ」
 頷くと、「ありがとう」と言ったアルフォンスの面に、心からの笑顔が広がった。