17

「なんだぁ、エドワードはまだリゼンブールに里帰り中か?」
 面白くなさそうに言った警官に、アルフォンスは苦笑を返した。
「こんにちは、ヒューズさん」
「よう、元気そうだな、アルフォンス。――ん? ちょっと顔色が悪いな。規則正しい生活をしろよ? そんなに丈夫じゃないんだから」
 アルフォンスの顔を覗き込み、しかめっ面でお説教を口にする警官に、曖昧な笑みを返しながら頷いた。
「気をつけます」
 アルフォンスの言葉に満足そうに頷いて、警官はそっと視線をアルフォンスの背後に流した。
 その視線を追って、アルフォンスは小さく笑う。
 花屋の主人であり、アルフォンスの下宿先の大家でもあるグレイシアが、店先で客に花束を手渡していた。
 優しい声で「ありがとうございました」と客を見送ったグレイシアに、ヒューズが声をかけた。
「こんにちは、グレイシアさん」
「あら、こんにちは、おまわりさん」
 にこやかな笑顔を返されて、ヒューズの顔が嬉しそうにほころんだ。
 それを見つめていたアルフォンスは、エドワードの言葉を思い出す。
「ヒューズさんとグレイシアさん、上手くいくといいな」
 そう言ったエドワードの横顔は、懐かしそうな、淋しそうな、なにか痛みを堪えるような表情だった。
 いま思えば、彼らもまた、エドワードのいた世界の誰かにそっくりなのだろう。
 アルフォンスは目を伏せた。
 軋むような痛み。
 エドワードを思い出すたびに。
(――……っ)
 無意識に、左胸を掴んだ。
 指先と掌に、乾いた布の感触。
(あぁ、ジャケットに皺がついてしまう……)
 頭の隅で、どうでもいいことを思う。
 胸の痛みが増す。
 もう何日顔を見ていないだろう。声を聞いていないだろう。――触れていないだろう。
 こんなにも切望しているというのに、会いにも行けない。
 怖くて。
 弟がいるから、もう、アルフォンスは「いらない」とそんなふうに思われていたらと思うと、会いに行けなくなってしまう。
 たんなる被害妄想だ。
 それは、わかっている。わかっているけれども……。
「アルフォンス!?」
 焦りを含んだような声が聞こえた。
 自分を呼ぶ声に、アルフォンスは「まさか」と思う。
 思いながら、ゆっくりとふり返った。
「あら、エドくん」
「よう、エドワード、久しぶりだな!」
 グレイシアとヒューズがそれぞれ声をかけているのが、アルフォンスの耳に届いた。
 エドワードがそれに挨拶を返しながらも、足早に近づいてくる。
 アルフォンスは、それをぼんやりと見つめていた。
「アルフォンス、大丈夫か?」
 目の前に立ったエドワードに問いかけられて、アルフォンスは「エドワードさんこそ、大丈夫ですか?」と問いかけた。
「は?」
「今にも倒れてしまいそうな顔ですよ」
「――オレのことより、お前だろっ!? 顔色、悪いじゃねぇか。なのに、なに出かけようとしてるんだよ!?」
 怒鳴られて、アルフォンスはきょとんと目をまたたいた。
「今日は外出禁止! とっとと部屋に戻れ!!」
 命令口調で言いながら、ぐいぐいとアルフォンスの体を押して、部屋へ戻らせようとする。
「ちょ……エドワードさん!」
 我に返って、アルフォンスは慌てた。
 部屋に戻るわけにはいかない。
 今日も、ロケットの研究のために仲間たちと集まる約束をしているのだ。
 エドワードの力に逆らうように足を踏ん張り、アルフォンスは立ち止まった。
 ムッとエドワードに睨みつけられるが、アルフォンスは気にしなかった。
 どれだけ睨まれても、怖いと思ったことはない。……エドワードには内緒だが。
「アルフォンス」
「エドワードさんにとって錬金術が大事なように、僕にとってもロケットは大事な夢です。ですから、いやです」
「身体を壊したら、元も子もないだろ」
「そうですね。でも、自分の体のことなんて、二の次なんですよ」
 にっこり笑って言うと、エドワードが渋い顔をした。
 エドワードにも身に覚えのある言葉なのだろう。苦虫を噛み潰したような顔のまま、彼は黙り込んだ。
 にっこりと、もう一度満面の笑みを浮かべたアルフォンスは、踵を返しかけ、ぴたりとその動きを止めた。
 それまでエドワードとアルフォンスのやり取りを静観していたグレイシアが、心配そうにアルフォンスの腕を取り、顔を覗き込んできたからだ。
「アルくん、ダメよ。本当に顔色が悪いわ。今日は大人しく部屋に戻ったほうがいいわ。あなた、最近、また泊り込みばかりで、ろくに部屋に戻っていなかったでしょう?」
 ちゃんと知っているのよと、心配そうに顔を歪ませるグレイシアに、アルフォンスは言葉に詰まった。
 背後からエドワードの怒った空気が伝わってきて、それとは違う視線を感じて、そろりと目を動かせば、「グレイシアさんに心配をかけさせるな!」と言いたげに、ヒューズがアルフォンスを見ている――というか、睨まれていた。
 味方はひとりもおらず、八方ふさがり。
 がっくりと肩を落として、アルフォンスは「降参です」と両手を挙げた。
 安心した空気が、流れる。
 にっこりと安心した顔で微笑んで、グレイシアがアルフォンスを家のほうへと促した。
 諦めの溜息を零して、大人しく従う。
 店の入り口に辿り着いたところで、
「兄さん、全然役に立ってないじゃないか」
 呆れた声が聞こえて、アルフォンスはふり返った。
 自然と眉根が寄った。
「るせぇよ」
 不貞腐れた声音でエドワードが返して、弟を軽く睨みつけている。
 湧き上がる不快感。
 痛み。
 寂寥感。
 目を背けるように視線を引き剥がそうとして、彼の弟と目が合う。
 いつかの、逆だ。
 咄嗟にそう思った。
 ゆっくりと傾ぐ、少年らしさを残したままの首。
 不思議そうにまたたく目。
 エドワードの愛している、すべて。
 どうしようもなく湧き上がる嫉妬を押さえ込むのは、ずいぶんな努力が必要だと思い、知る。
「アルフォンスさん!」
 無邪気に彼はアルフォンスの名を呼んだ。
 退路を立たれた気分で、アルフォンスは彼の弟と向き合うように体ごと振り向いた。
 エドワードが、居心地が悪そうに視線を外す。
「アルフォンスさん、大丈夫ですか?」
 小走りに近づいてきた少年が、心配そうに顔を覗き込んできた。
 それに、アルフォンスは笑いかけて言った。
「こんにちは。――キミのお兄さんは心配性すぎるね」
「あ、こんにちは」
 慌てて挨拶を返す姿は、アルフォンスでも微笑ましいものだと思う。
 けれど、それを上回る感情。
 それを押し隠すように、アルフォンスは一度瞼を伏せた。
 少年が苦笑めいた笑みを頬に浮かべて、軽く肩を竦める。
 けれど、すぐに、心配を隠さない表情でアルフォンスを見上げた。
 それを見つめながら、心根が優しいのだとアルフォンスは思う。
 たぶん、きっと、目の前のこの少年も、アルフォンスに対して好意を持っていないだろう。心の奥底では、きっと、アルフォンスと同じように嫉妬を感じているに違いない。
 そんなものを感じる必要など、彼にはないのに。
 あの夢の中の邂逅でアルフォンスに向けた瞳を、思い出す。
 激しい嫉妬。あの、感情。彼の偽らざる本音。
 ――それなのに、こうして心からの心配をしてくれる。
「心配しすぎってことはないと思います」
 少し沈んだ声がそう言った。
 アルフォンスは、声同様、淋しそうに沈んだ顔を見つめる。
「ボクたちの母さん、病気で亡くなったんです。兄さん、ああ見えてそういうところが意外に繊細だから、アルフォンスさんを失うのが怖いんじゃないかな……」
 言われた言葉に曖昧な笑みを返しながら、アルフォンスは「違う」と心の中で、少年の言葉を否定した。
 エドワードが恐れているのは、弟に似た人間を失ってしまうことで、アルフォンス・ハイデリヒを失うことじゃない。
 弟そっくりの人間を失うことは、弟を失ってしまうように、錯覚してしまうから。
 その恐怖に怯えている。それだけだ。
 ああ、けれど、これは穿ちすぎた思考だ。
 エドワードの、自分に対する純粋な感情まで疑ってしまう心の狭さに、アルフォンスは自嘲した。
 いつかも思ったことを、繰り返し思考する。
 せめて、姿形か、名前だけでも違っていたなら……と。
「……アルフォンスくんも、エドワードさんも、優しいね」
 アルフォンスがそう言うと、彼の弟は軽く目を見張った。
 驚いたようにアルフォンスを見つめ、「兄さんはともかく、ボクは優しくないです」と緩く首を振って否定する。
 謙遜と、本気でそう思っているらしいその言葉に、
「優しいよ」
 くり返し言って、アルフォンスは踵を返した。