18 ゆっくりと階段を上る背中を追いかけるように、エドワードは慣れ親しんだ階段を、同じようにゆっくりと上った。 自分の部屋のドアの前に佇んだまま、アルフォンスは動かない。 エドワードが追いつくのを待っているようだった。 僅かな逡巡の後、エドワードはアルフォンスの背後に立った。 それを見計らったように、アルフォンスがドアを開く。 ゆっくりと開かれるドアの向こうに、数日前まで暮らしていた空間が見えた。 エドワードはふっと目を細めた。 この場所も違うと解っていても、それでも自然と安心してしまうのは、やはりここもエドワードの居場所のひとつだからだろうか。 無言のまま部屋に入ったアルフォンスを追いかけるように、エドワードも部屋に入った。 久しぶりだからだろうか。少し寒々しい空気に思える。 「……そういえばグレイシアさんが言ってたっけ。ろくに部屋に戻っていなかった、って」 エドワードが言うと、アルフォンスが苦笑する気配がした。 「もうすぐカーニバルがあるんです。そこでロケットを……試作品を飛ばすことが決定していて」 「へえ? すごいな!」 感嘆したエドワードの言葉に、アルフォンスは自嘲混じりの反応を返す。 「オーベルト先生が話を通してくれたから実現しただけです。僕たちだけでは実現しなかった」 軽く肩を竦めるアルフォンスに、エドワードは「それでも」と言った。 「きっかけにはなるじゃないか」 もっとたくさんの仲間が集うかもしれない。 援助を申し出る人間がいるかもしれない。 成功すれば大きな自信に繋がる。 逆のことも言えるけれど、失敗ばかりを考えて恐れていては、一歩も前へは進めない。 なにも、前進しない。立ち止まったままになる。 それに失敗しても、また、立ち上がればいいだけだ。 道は続いている。少し遠回りをするだけで、閉ざされるわけではないのだ。 エドワードの言いたいことを汲み取ったのだろう、アルフォンスが「そうですね」と微笑んで頷いた。 「アルフォンス」 呼びかけたものの、エドワードは自分がなにを言おうとしていたのかわからなかった。 言葉を探すように視線をさ迷わせ、そう言えばと思い出す。 「――不都合とか、なかったか?」 「え?」 「ここって、オレたちがいたミュンヘンとは違うだろう? だから……」 大きな齟齬はなかったのだろうかと、気になった。 エドワードが扉を超えたときは、まったく別の世界だった。だから齟齬以前に何もかもが違っていたけれど、ここは中途半端に状況が似ているから、逆に話を合わせたりするのに困るんじゃないかと思ったのだ。 しかし、エドワードの心配をよそに、アルフォンスは苦笑混じりに首を振った。 「どういう仕組みになっているのか解りませんけれど、都合よく、すべての辻褄が合っていますよ」 齟齬らしい齟齬もなく、まるで世界がアルフォンスに合わせたようだ、と、アルフォンスは言った。 「今までいた世界とこの世界を、旨く融合させたような印象です」 そう言ったアルフォンスに、エドワードはただ「そうか」と頷いた。 では、齟齬が見つかったのは、エドワードと弟のアルフォンスのほうだけなのだ。 それでも、その齟齬も、あの幼馴染みが気づいたからわかったに過ぎないし、気づかなければ気づかないで、問題はなかった。それにいつか気づいたとしても、誤魔化しがつく程度。誤魔化さなくても、エドワードをよく知っている人たちに正直に話せば、最初は半信半疑でも、必ず信じて受け入れてくれる。 いま、事実を受け入れてくれているように。 害のない齟齬。 「エドワードさん」 黙りこんだエドワードに、声がかけられた。 アルフォンスを見ると、彼は複雑な顔でエドワードを見ていた。 わずかな逡巡の後、アルフォンスが決意を固めた顔をする。そして、おもむろに口を開いて言った。 「今日、ここに来たのは、荷物を取りに来たんですよね?」 「え?」 「弟さんと一緒に住むんでしょう? あなたは、ずっと、弟さんの傍に帰りたがっていた。ここがどんな世界であれ、あなたは、あなたが何よりも望んだ人の傍にいられるんだ」 「ちょっと、待ってくれ、アルフォンス……」 突然投げかけられた言葉に、エドワードは驚いた。 慌ててアルフォンスの言葉を遮るように声をかけるが、アルフォンスはエドワードの声に耳を貸す気はないというように、顔を背けた。 拒絶するような態度を取られて、エドワードは途方に暮れる。 この世界に来てから、少しずつ、歯車が狂いだしている。 エドワードを翻弄するように、思いもかけない方向へ、動き出しているなにか。 望んでいたのは、元の世界へ帰ること。 本来、自分が在るべき場所へ。 けれど、その根底にあったのは、アルフォンスに――弟に会うため。無事でいるのか。ちゃんと肉体を取り戻せたのかを、確かめるためだった。 最愛の家族に会うため、だった。 だから、アルフォンスの指摘は間違っていない。 間違っていないけれど、友人の言葉は棘となって、エドワードの心に痛みをもたらした。 「……今日来たのは、荷物を取りに来たとかじゃなくて、ただ、体調が悪そうだったから、どうしているかなって気になっていたから」 ぽつりと、エドワードはアルフォンスの背中に向けて言った。 頑なな態度に、そっと、嘆息する。 どうして、急にそんな態度を取られるのかが、エドワードには判らなかった。 それまで当たり前にあった優しさを不意に失って、心が軋む。 気を抜けば、泣き出してしまいそうな気がした たぶん、涙など出ないだろうけれど。 「あの日、急に帰っただろう? ずっと、気にしていたんだ」 「…………いで下さい」 「なに?」 吐き出すように告げられた言葉が、聞き取れなかった。 怪訝そうに問い返す声を上げると、アルフォンスがゆっくりと振り返った。 辛そうに顔を歪めながら、アルフォンスがくり返し言った。 「僕に、もう、かまわないで下さい」 「アルフォンス?」 「僕はもう、エドワードさんに必要ない存在でしょう? あなたの隣には弟さんがいる。身代わりは要らないはずです」 アルフォンスの言葉に、エドワードは愕然となった。 なにを言っている? 目の前の友人は――アルフォンスは、なにを言っているんだ? エドワードは呆然とアルフォンスを見返しながら、言われた言葉を何度も頭の中で、心の中で反芻した。 ゆっくりと浸透した言葉を理解したとたん、カッとなった。 開いている距離を足早に詰め、アルフォンスの胸倉を掴み上げた。 厭い、抗議するように眇められた眼差しを無視する。 「な…に、なんだよ、それ!?」 「言葉どおりですよ」 「オレはっ……! 身代わりだなんて思ったことない。そんなつもりで傍にいたわけじゃ……」 ない、と言おうとした言葉は、いままで聞いたこともないアルフォンスの冷たい声音に遮られた。 「じゃあ、いったいどんなつもりで僕に近づいたんですか? 弟さんに似ている僕の傍にいれば、あなたは心の均衡を保っていられたからじゃないんですか? あなたにとっては夢の世界で、でも、あなたを知る人は一人もいなかったあの場所で、寂しさを紛らわせて、正気を保つためには、弟さんに似た僕が必要だったんでしょう?」 違う、と、すべてを否定できず、エドワードは唇を閉ざした。 アルフォンスが……弟のアルフォンスが成長していたら。 鎧の姿ではなく、人の姿のまま成長していたら、きっと、目の前の友人のようだったはずだ。 そんなことを、何度考えただろう。 自分の奪い取ったもの。 人としての姿。時間。 奪わなければ、弟は人の姿で笑っていただろう。無邪気に、優しく幸せな笑顔で、笑いかけてくれていただろう、ずっと。エドワードの傍らで。 巻き込まなければよかった。 くりかえした、後悔。 くりかえす、後悔。 あと何回くり返せばいいのだろう。――いや、きっと。この命が果ててしまう瞬間まで、くりかえす、後悔。 昼といわず、夜といわず、何度も考えた。考えない日はなかった。考えない時間はなかった。 ああ、そうだ。――――重ねない日はなかった。 否定など、できるはずがなかった。 身代わりにしていた。無意識に―――きっと。ずっと。はじめて出会ったときから。 向けられる優しさに甘えていた。 甘えることを許していた。 与えられる優しさの奥にあるものに気づいていながら、ずっと気づかない振りで過ごしていたのは、誰だった? 力を失った指先が、掴み上げていたアルフォンスの胸元から落ちる前に、アルフォンスの手が重ねられた。 ぼんやりと見返すエドワードの視線の先には、苦く顔を歪めた友人の姿。 ゆっくりと開かれる唇を、エドワードは見つめる。 「あなたは知っていたんでしょう? 気づいていたんでしょう?」 糾弾するような言葉は、けれど、苦しみを吐きだしているように聞こえた。 「僕はあなたが好きなんです。傍にいたいんだ。だから……。だけど、あなたの弟の身代わりなんて、これ以上は真っ平です」 僕を見てください、と、苦しそうに吐き出された言葉と同時に、強く抱きしめられた。 温かな体温。 ふと、エドワードの脳裏に思い出された、弟の体温。 抱きしめられた感触。 どうして思い出したのだろう。 そんなことをぼんやりと考えたときだった。 弟の声が、エドワードの思考をクリアにした。 「アルフォンスさん、兄さんに触れないでもらえますか? その人、案外情に流されやすいタイプなんですよ」 アルフォンスの腕の中に抱かれたまま、エドワードは振り返った。 ぎこちなく首を巡らせて見つめた視線の先で、丁寧な言葉遣いを裏切る冷たい表情を見つけて、エドワードは体を強張らせた。 |