21

「兄さん」
 懐かしい声音で呼ばれて、それだけで胸が一杯になる。
 アルフォンスがここにいる。
 元の肉体を取り戻した、弟が。
 それだけで嬉しいのに、どうしてそれだけじゃ駄目なのだろう。
 アルフォンスからの告白を聞くたびに、胸が痛む。
 痛くて、痛くて。けれど、痛みの理由が判らない。
 応じられないから? 恋愛対象として見ることができないから? 弟を傷つけてしまっているから?
 どれもこれも合っているようで、合っていない。
 エドワードが心のうちで自問自答をくりかえしていると、淡々とした口調でアルフォンスが言った。
「兄さん、今日は……ううん、しばらくこの家に戻ってみたらどうかな?」
「え? なにを―――アル?」
 なにを言われたのか解らなくて、エドワードは戸惑った声を上げる。
 瞬きをくり返し、エドワードの瞳より僅かにくすんだ色合いの弟の瞳を、覗きこむように見つめた。
 けれど、その心のうちを、真意を推し量ることはできそうになかった。
 なにを考えているのだろうかと思いながら、続けられるだろう言葉を待つ。
「ボクは兄さんと一緒にいたら、どうしても兄さんを困らせてしまうようなことしか言えないし……」
「――ちょっと待ってくれないかな。僕の意思は考慮してくれないつもり? 聞いていたんだよね、僕がキミの身代わりは真っ平だって言ったことを」
 呆然としているエドワードの傍らから、ハイデリヒの声が上がって、エドワードはぎこちない動きで首を巡らせた。
 振り返った先には、心底困ったような……迷惑がっているとも思える顔をしているハイデリヒがいて、エドワードの心臓が嫌な音を立てて冷えた。
 知らず、自分で自分を抱きしめてしまう。
「聞いていました」
 穏やかな声で答えるアルフォンスの言葉にも、エドワードの心は怯える。
 なんて自分勝手なんだろう。
 二人の想いに応えないくせに、拒絶されるのは嫌だなんて。怖いだなんて、なんてずるい。
「でも」
 穏やかな声のまま続けられた言葉に、エドワードが顔をむけると、アルフォンスの優しい瞳と視線が絡んだ。
 小首を傾げて、微笑む仕草。
 エドワードを安心させるように。
 ああ、とても、胸が痛い。
 痛くて、痛くて、……苦しくて。
 求めていたもの。
 たった、ひとつの。
 たったひとりの、大切な…………。
 エドワードは虚をつかれて立ち尽くした。
 心の琴線に、いま、何かが触れた。
 けれどそれは、続けられたアルフォンスの声に霧散する。
「ボクはこれ以上、兄さんを困らせるようなことを言いたくないんです」
「僕は困るんだ」
「そうですね。すみません。だけど兄さんを困らせてしまうよりいい。……ええっと、ボクにとっては、ですけど」
「エドワードさんに負けず劣らず……」
「我儘ですよ、ボクは」
 エドワードを放り出したまま会話を続ける二人の声だけが、ずっと、耳に響いてくる。
 エドワードはそれを理解できないまま、聞いていた。
 いや、違う。理解はしている。けれども、二人の会話に注意を向けていられる余裕がなかった。
 掴み損ねたもの(目を、逸らしたもの?)。
 感情。
 言葉。
 それから、真実。
「……どうしますか、エドワードさん?」
 不意に矛先を向けられて、エドワードは我にかえった。
 二人のアルフォンスの眼差しが、じっと、エドワードの身に注がれていた。
「どうするって……」
 口ごもるように答えながら、ちらりと弟のほうを見やれば、彼は拒否を許さないような目をしていた。
 どうして、とエドワードは思う。
 なぜ、急に、アルフォンスは不可解なことを言い出したのだろう。
 エドワードがハイデリヒと一緒にいることを、傍にいることさえ不満そうだったというのに。
「アルは……オレがここにいたほうがいいって思うのか?」
「だって、ボクが好きだって言うと、兄さんを困らせてしまうじゃないか。兄さんを困らせて嫌われたくないよ」
「なにがあっても、どんなことがあっても、それらの原因がお前であったとしても、オレがお前を嫌うなんて、そんなことあるもんか」
 思わず眉を顰めてそう言うと、アルフォンスが面映そうに笑った。
 嬉しそうに、幸せそうに、アルフォンスが笑う。
 笑ってくれる。
 記憶の中の、温かな笑顔、そのままに。
 エドワードの想像じゃない、本物の笑顔で。
 もう何度も思ったそれを、なぞるように、エドワードは思う。
「うん、そうだね」
 柔らかな声で頷いて、けれど、アルフォンスはすぐに真面目な顔つきをした。
 アルフォンスの表情の変化に、自然とエドワードも緊張する。
 求められているのは「是」という言葉。
 困らせてしまうから。だから、少しの間だけ離れてみよう、と。建前だろう理由の奥に隠されているアルフォンスの本音を、思惑を、エドワードは知らない。解らない。
「本当はボクだって兄さんと一緒にいたいよ。一秒だって離れていたくない。でも、兄さんを困らせてしまうのは嫌だよ。それにボクが傍にいないほうが、ゆっくりと考えられていいだろ?」
 考える、という言葉にエドワードは軽く唇を噛んだ。
 平行線だ。
 いま、どれだけ言葉を重ねたとしても、アルフォンスは納得しないだろう。
「――わかったよ」
 しょうがない。
 エドワードは吐息混じりに言って、頷いた。
「アルがそれで納得するなら、オレはしばらくこっちにいる」
 エドワードがそう言うと、大きく溜息をつく音が聞こえた。
 視線をずらすと、ハイデリヒが険しい顔で眉根を寄せていた。
 ハイデリヒの想い。告げられた言葉を、忘れたわけじゃない。アルフォンスだけでなく、ハイデリヒから告げられた想いのこと。それも、考えなくてはいけない。
 それは解っていたけれども、長年染み付いた優先事項は、なかなか覆らないものだ。
 アルフォンスが望むなら、叶えられる限りのことは叶えたい。
 それは義務感からでも責任感からでもなく、当然のこととしてエドワードの中に確立されているもの。
「悪いな、アルフォンス」
 申し訳なさを交えて言うと、ハイデリヒがまた溜息をついた。
 深い溜息の後に、
「仕方がないですね」
 諦めを多分に含んだ言葉で、ハイデリヒは、エドワードとアルフォンスの我儘を受け入れてくれた。