24

「アル」
 背後からそっと呼びかけられて、アルフォンスは一瞬躊躇った。
 ウィンリィに呼ばれている。だから振り返らなくちゃいけないと思うのに、振り返るのを躊躇ってしまうのは、エドワードから視線を離せないからだ。
 何が悲しいのか。
 それとも怖がっているのか。
 不安なのだろうか。
 怯えているのかもしれない。
 親とはぐれた幼い子供のように、泣き出しそうな顔をしているエドワードから、いま視線を逸らしたら……。逸らしてしまうのは、それは間違いだと本能が警告する。
 だけど、ウィンリィの声を無視するわけにもいかないと、躊躇い、どうしようかとアルフォンスが思っていると、溜息混じりの声が続いた。
「そのままでいいわよ」
「ウィンリィ?」
「いいから。そのままで聞いて」
「うん……」
「わたし、やっぱり、今日は帰るわ。エドの様子おかしいし」
「……うん」
「心配だけど。わたしも傍にいたいけど、なんでかな、……わたしはいないほうがいい気がするから」
「ごめん」
 謝ると、背後で苦笑する気配。
 ぱしん、と。痛くはないけれど、活を入れるように背中を叩かれた。
「謝られるようなこと、されてないわよ」
「うん、そうだね。ごめん……じゃなくて。ありがとう」
「うん」
 こくん、と、頷く気配。
 それが消えない間に、ウィンリィが動いたのが、空気の流れで判った。
 そうっと、エドワードとアルフォンスに近づく気配。
 エドワードを怯えさせないようにそっと髪を梳く細い指を、視界の端に映す。
 エドワードがゆっくりと視線を上げた。
 不安定に揺れている瞳で、ウィンリィを見つめる。
 そんな風に、ウィンリィを見ないで欲しいと。
 馬鹿馬鹿しい嫉妬が、こんなときにも湧きあがる。
 思い知る。
 こんなにもエドワードのことを、好きだという気持ちを。
 本当は、一秒だって、離れていられない。
 離していたくない。
 独占欲。
 束縛。
「ウィンリィ?」
 ぎこちなくエドワードが呼びかける声に、ウィンリィが明るく笑った。
「エド、調子が悪いときは悪いって、素直に言わなくちゃだめじゃないの!」
「え?」
「ちゃんと眠ってる? ご飯、食べてる?」
「ああ、……ちゃんと」
「本当に?」
 疑う眼差しを向けられて、エドワードが気分を害したように眉根を寄せた。
 悪態をつこうと開かれた唇が音を紡ぐ前に、アルフォンスは言った。
「兄さん、顔色があまり良くないよ。本当にちゃんとご飯を食べて、寝てるの?」
 エドワードが寝食を忘れてしまうタイプの集中型人間だということを、アルフォンスは思い出す。
 幼い頃から、夢中になると、周囲が目に入らない人だった。
 母親がいたときは、時間通りに食事を取らせ、ベッドに押し込みと手綱を取ってくれていたけれど。
 旅をしていた間はどうだったのだろう。
 やはりエドワードは、寝食を忘れていたのだろうか? その面倒を、自分はみていたのだろうか? ……ちゃんとみることができていたのだろうか?
 記憶がないことに、もどかしさを感じる。
 エドワードの負担になってはいなかっただろうか。
 傍で、誰よりも愛しいと思えるこの人を、支えることのできる存在であっただろうか。
 そんなことを考えながら、アルフォンスは続く言葉を口にした。
「自己管理しないとダメだよ、兄さん。ボクはすぐに気づいてあげられる場所にいるんじゃないんだから……兄さん?」
 アルフォンスの言葉の何に傷ついたのだろうか。
 痛みを堪えるように、エドワードの表情が歪んでいる。
 アルフォンスは驚いて、言葉をとぎらせたまま、エドワードの顔を見つめた。
 なにかを飲み込み、押し込め、封じるように、エドワードが苦しそうな表情のまま瞳を閉じた。
 なにを飲み込んだのだろう?
 なにを、心の奥底に押し込めたのだろう?
 なにを封じ込めた?
 なぜ、そんな苦しそうな顔をしているの?
 アルフォンスの中で、問いかけたい言葉がぐるぐると回る。
 けれど、問いかけられることを拒絶している空気があって、アルフォンスは疑問を口にすることができない。
 なにもできない。なにも言えないまま立ち尽くして、アルフォンスはエドワードを見つめている。
 途方に暮れた状態で立ち尽くしていると、加減なしに背中を叩かれた。
「……ぃた」
 殺しきれなかった声が空に消える。
 背中に残る痛みに顔を顰めたままアルフォンスが視線を動かすと、いつの間に背後に移動していたのか、ウィンリィが剣呑な表情でアルフォンスを睨みつけていた。
 あまりの迫力にアルフォンスの体は、無意識に、彼女から逃げるように離れた。
 アルフォンスが離れた分だけ、ウィンリィが近づく。
 近づいて、怒りと呆れの入り混じった声で言った。
「なにをぼんやり突っ立っているのよ!?」
「ウィンリィ……?」
「もう! 気が利かないんだからっ!!」
「え?」
「え? じゃないわよ! エドの様子がおかしいんだから、話を聞いてあげるのはアルの役目でしょ? それとも他の人に――わたしや彼にその役を任せる? だったら、エドを連れて行くわよ!?」
「ええっ!? ダメだよ! それは、ダメ!」
 ウィンリィの迫力に押されるまま、彼女の言葉を聞いていたアルフォンスは、「連れて行く」という一言に我に返って、慌てて首を振って拒絶する。
 冗談じゃない。
 エドワードを自分以外の誰かの手に委ねるなど、真っ平ごめんだ。
 本当はいまだって。
 アルフォンス・ハイデリヒ。彼の傍にいさせることだって、本当は、嫌なのだ。
 だけど、エドワードが傍にいると、どうしても気持ちを言葉にしてしまって、困らせてしまうから。
 いつまで経っても、「弟」「家族」という枠内でしか、見てもらえないから。
 一人の人間として。アルフォンス・エルリックとしてみて欲しい。
 そして、叶うのならば、同じ想いを返してもらえるように。
 エドワードの中にある、アルフォンス・エルリックを思う気持ちが兄弟に向ける以上の『想い』になってくれればいい、と。
 そのきっかけになれば良いと思っているから、独占欲や束縛欲を押し殺して、恋敵の傍にいさせているのだ。
 エドワードが一番必要としている人間が誰であるのか、はっきりさせるために。
 自己中心的な方法だと、よく判っている。
 けれど強引な方法を取らない限り、アルフォンスの気持ちは立ち止まったまま、動くことができない。
 そして、きっと、それはハイデリヒにしても同じだろう。
 それが解っているから、彼もエドワードとの同居を了承したのだ。
 生殺しの感情を解放させるために。
「――兄さんのことは、ボクが引き受けるよ、ウィンリィ」
「任せて大丈夫ね?」
 確認するように問いかけたウィンリィに、アルフォンスは力強く頷いた。
 じっと、ウィンリィがアルフォンスの瞳を見つめてくる。
 十数秒という短い時間、アルフォンスに視線を固定させていたウィンリィは、やっと納得したように頷いて、
「任せたからね!」
 と活を入れるように、また、アルフォンスの背中を容赦なく叩いた。
 アルフォンスは顔を顰めて、小さく唸る。けれど、彼女はそれに頓着することもなくエドワードへと視線を向けて、
「エド、無理しちゃダメよ? あんたは変なところで遠慮するけど、アルに遠慮することなんてないんだからね! 好きなだけ我儘言っちゃえ」
「ばか。これ以上アルに我儘言えるかよ」
 小さく笑ってエドワードがそう言うと、「それもそうね」と妙に納得した顔でウィンリィが相槌を打つと、
「どっちだよ」
 エドワードが拗ねたように唇を尖らせた。
「適度に我儘を言えってことよ」
 茶目っ気たっぷりのウインクをして、ウィンリィがもう一度アルフォンスに向き直った。
「アル」
 静かな声音で呼ばれて、アルフォンスは気を引き締めるような緊張に包まれた。
 真摯なウィンリィの瞳を見つめると、柔らかく微笑まれる。
 青い瞳の中に浮かぶ、深い、深い、感情。
 すべてを包み込むような、それ。
 その瞳に一瞬浮かんだせつないような感情に気づいて、アルフォンスは小首を傾げた。
 アルフォンスが気づいたことに、ウィンリィは気づいたのだろう。
 ゆっくり、数回の瞬きを繰り返して、瞳の中に浮かんだせつなさを消した。
 いつもと変わらない、強気で、エドワードに負けないほどの明るい笑顔を浮かべた幼馴染みが、目の前にいた。
 問いかけることを拒む空気がそこにはあって、アルフォンスは「どうしたの?」と問いかける言葉を飲み込む。
 エドワードの様子も気になったけれど、ウィンリィの様子も気になって、どうしようかとアルフォンスが思ったときだった。
「え……、兄さん?」
 決して強くはない力で、けれど、無視できない力加減で、袖口を引かれた。
 振り返った先に、はっと我に返ったエドワードの姿を見つけて、アルフォンスは驚いた。
 ゆっくりとエドワードと、引かれた袖口を交互にみつめる。
 アルフォンスの視線を感じたからか、エドワードが慌てて手を離そうとし、それを遮るようにアルフォンスはもう片方の手でエドワードの手を掴んだ。
 アルフォンスの視線の先には、ひどく狼狽したエドワードがいる。
 エドワードの手を掴んだまま、アルフォンスはもう一度ウィンリィに向き直った。
 ウィンリィの澄んだ湖面のような青い瞳は、複雑にアルフォンスとエドワードを見ていたが、アルフォンスが振り返ると、ウィンリィはきれいに笑った。
 笑って、ウィンリィが言った。
「それじゃあ、わたしはもう帰るね」
 ばいばい、と軽く手を振ったウィンリィが、アルフォンスとエドワードの傍らをすり抜けて、公園の出口へと向かう。
 凛とした後姿が、やけに印象的だった。
「ウィンリィ、今日は、ごめんね。また今度、三人で出かけようね!」
 立ち去る背中にそう声をかけると、
「期待しないで待っているわよ」
 と、なんだか含みのある一言と共に、ひらひらと手が振られた。
 肩越しにも振り返らないウィンリィの背中を、アルフォンスとエドワードは見送った。