25

「あら、ウィンリィさん?」
「あ……こんにちは、グレイシアさん。――アルフォンスさん」
 公園を出て通りを歩いていると、声をかけられた。
 振り返ると、エドワードの下宿先の女主人と、エドワードのルームメイトであるハイデリヒがいた。
「お買い物? ひとりなの?」
 親しげに笑いかけながら問われて、ウィンリィは曖昧な笑みを浮かべた。
 どういう経緯があったのか判らないが、エドワードがロックベル家を出て、下宿先に戻ってから、ウィンリィも頻繁にこの女主人の経営するアパートに出入りするようになった。
 自然とグレイシアと顔馴染みになって、もともとが世話焼きタイプの女主人は、まるでずっと昔からの知り合いのように、ウィンリィにも接してくれる。
 少しだけ年の離れた姉ができたような気分がしていて、ウィンリィもすぐにグレイシアに好感を持った。
「ええと、今日は……ちょっと、暇を持て余していて……」
「あら、そうなの? じゃあ家に寄って、コーヒーでも飲んで行かない? パイを焼いたのよ。味見をしてちょうだいな」
 言い訳をするようなウィンリィの口調から、なにかを察したのだろうか。グレイシアが柔らかく微笑みながら、そう言った。
 気遣いの上手い人だと思う。
「えっと、でも」
 グレイシアの誘いは嬉しいけれど、いつエドワードがアルフォンスを伴って戻ってくるのか判らない。
 そう思うと、気が重い。
「都合が悪いのかしら?」
 返事を躊躇っていると、目に見えてグレイシアの意気が消沈する。
 悲しそうに瞳を揺らして見つめ返されると、なんだか断るに断れない気がして、ウィンリィはどうしたらいいだろうと、途方に暮れた。
 正直に言えばグレイシアお手製のアップルパイは、とても魅力的なのだ。
 お店で売っているものよりも、ずっとおいしい。
 だからかなり心惹かれるお誘いだけれど、やっぱり、エドワードとアルフォンス。あのふたりと顔を合わせて、平静でいられる自信がなかった。
 ずっと、小さな頃から、あのふたりの間に割って入ることには、勇気が要った。
 ふたりとも錬金術が大好きで、ウィンリィには判らない構築式だの、法則だのと、専門用語がぽんぽんと飛び交っていて、三人でいるのにひとりでいるような孤独感を、何度も味わってきた。
 けれど、その度に、アルフォンスがウィンリィを気遣ってくれて、錬金術に夢中のエドワードを諫めて、言ってくれたものだった。
「ねぇ、兄さん、錬金術の話はあとにしようよ。ボク、少し疲れちゃったから、べつのことをして遊びたい」
 決してウィンリィが退屈しているから、とは言わないアルフォンスの優しさが嬉しくて、アルフォンスのことが一番、好きになった。
 自意識過剰と言われるかもしれないけれど、アルフォンスの「一番」が自分だと、ウィンリィは知っていた。
 だから、機械鎧師として一人前と認められるようになったら、そうしたら、年上の女らしく自分から、アルフォンスに告白をしようと思っていたけれど……。
 旅の途中で二人が行方不明になったと聞いて、それからの日々のことを、実は、あまり覚えていない。
 なんとなく、毎日を怠惰に、流されて過ごしていた。
 気力という気力を、根こそぎ奪われた気がしたのだ。
 それでも機械鎧に関しては、手を抜いたりしなかった。
 いつでも、ふたりに誇れる自分でいたかった。
 エドワードとアルフォンスが帰ってきたときに、「腕が落ちたな」なんて失望をされたくなかったし、させたくなかった。
 ふたりがいなくなって、長かったのか短かったのか判らないけれど、二年という月日が流れて。
 ピナコからアルフォンスが戻ってきたという報せを受けて、大急ぎでリゼンブールに戻ったウィンリィは、アルフォンスだけでなくエドワードとも再会を果たした。
 嬉しくて、嬉しくて。
 エドワードの顔を見て。
 アルフォンスの顔を見て。
 ふたりとも好きだけれど。大事だけれど、一番「好き」なのはアルフォンスだと再認識したところで、エドワードもアルフォンスも、ウィンリィの良く知っている、大事なエドワードとアルフォンスじゃないんだと判った。
 同じ生き方をしてきたけれど。
 姿も性格も、口調もなにもかも同じだけれど、違う世界のエドワードとアルフォンスだという。
 でも、それでもいいと思った。
 二人を知って、やっぱり大事な家族だと思った。
 それでいいと思った。けれど……。
 違うと判っていても。
 別人だと解っていても。
 アルフォンスの一番が自分じゃないと気づいたときの、あの、寂しさを。悲しさを、どう言い表せばいいのかウィンリィには判らない。
 ぽっかりと、自分の中のどこかが空洞になった。
 喪失感が、常に付きまとった。
 アルフォンスの眼差し。エドワードを見つめるときの瞳の優しさに、胸はつねに痛んだけれど、仕方がないからと自分を納得させたのは、最近のことだ。
 だって、アルフォンスはウィンリィの『アルフォンス』じゃない。
 だから、仕方がない。
 でも……。
 ふと伏せた瞼の裏によみがえったのは、対のように寄り添って立っていたエドワードとアルフォンスの姿。
 入り込めない空気。
 ふたりだけで完結した世界。
 姿が同じなんて、残酷。
 声が同じなんて、残酷。
 性格が同じなんて、本当に、ひどい悪夢。
 もう、二度と、ウィンリィの想いを受け止めてくれる人はいないんだと思うと、悲しくて、悲しくて、泣きたいくらいだった。
 だけど、涙はでなかった。
 嫌になるほど背筋を伸ばした自分がいた。
 公園で、エドワードを待っていたときにアルフォンスに向けた言葉を、ウィンリィは思い出した。
「アルが好き。――本当に、大好きよ」
 ねぇ、アル。わたしの想いは。言葉は、『あなた』に届いたのかな?
 いつか、届くのかな?
 その『いつか』はいつだろう。
 あとどれだけの夜と朝を迎えればいいのだろう。
 待つことを、許されているのだろうか?
 胸の中にある想いは、どこへ辿り着くのだろう。
『あなた』は、想いを、言葉を、いつか返しに帰って来てくれるのかな?
 泣きたい気持ちで胸が一杯になった。
 けれど、やっぱり涙は流れなくて。泣けなくて。
 胸の中の空洞が「淋しい」と訴えかけるばかりだ。
「ウィンリィちゃん、どうしたの?」
 黙ったままのウィンリィを気遣う声が聞こえて、ウィンリィは伏せていた瞼を押し上げた。
 瞳の先に、心配しているグレイシアとアルフォンス・ハイデリヒの姿があって、ウィンリィは少しだけ胸の空洞が小さくなった気がした。
 優しい人たちがいる。そのことが、とても、嬉しかった。
「グレイシアさん」
「なぁに?」
 瞳を和ませて、グレイシアが返してくれた声は、優しかった。
 少しだけ。
 いまだけ。
 今日だけ、優しい声に甘えてみようと思った。
「グレイシアさん、アップルパイ、ご馳走になっていいですか?」
「もちろんよ!」
 嬉しそうに笑ったグレイシアが、「行きましょう」とウィンリィとアルフォンス・ハイデリヒを促した。
 グレイシアに促されるまま、ウィンリィは優しい人の後姿を追いかける。
 ゆっくりと歩きながら、ウィンリィと肩を並べたアルフォンス・ハイデリヒが、ウィンリィにだけ聞こえる声で「お互い、しばらくの間辛い時間が続きますね」と、やっぱり悲しそうに、けれどすこしだけ微笑みながら、そんな言葉を零した。
 ウィンリィの知っているアルフォンスよりも線の細い青年を見上げ、ウィンリィは「でも」と呟く。
 ウィンリィの呟きにアルフォンス・ハイデリヒが、「ええ、そうですね」と頷いた。
「僕たちはお互い想いと心をもらえなかったけれど、でも、幸せであって欲しいと思う気持ちにも嘘はないですよね」
「うん……幸せになって欲しい……」
 それがウィンリィの隣じゃなくても、あの不器用で優しい幼馴染みたちには、幸せになって欲しい。いつでも笑っていて欲しい。
 いつもそう思っている。
 願っている。
――――いつでも、いつも、それだけを、願っている。