29


 廃墟と化した城の一角で、彼は変わり果てた姿の子供と再会を果たした。
 かつて作り出した赤い石の輝きより赤い瞳には、激しい感情が浮かんでいた。
 純粋な憎悪。
 その感情は、まっすぐに彼に向けられていた。
 らんらんと輝く双眸を、彼―――ホーエンハイムは、静かに、笑みさえ浮かべて見返した。
 最初の罪の証たる子供。いまは、エンヴィーと呼ばれるかの子供にまともに会うのは、いったい何百年ぶりだろうか。
 気が遠くなるほどの長い年月、ホーエンハイムは自らの罪と向き合うことを避けてきた。
 ぐる、と、獣特有の鳴き声が、エンヴィーの口から漏れた。
 異形の。この世界ではドラゴンと呼ばれる想像上の生物と変化を果たしているエンヴィーは、ただじっと、ホーエンハイムを睨みつけているだけで、ぴくりとも動く様子がなかった。
 ホーエンハイムもそれは同様で、静かにエンヴィーに相対していた。が、ホーエンハイムはコートのポケットに突っ込んでいた右手を、おもむろに動かした。
 そして、かりかりと困ったようにこめかみを掻きながら、やはり困ったように
「やあ」
 と言った。
「やあ、エンヴィー、久しぶりだな」
 剣呑なオーラを撒き散らしている相手にかける言葉としては、いささか呑気すぎる科白を口にしながら、ホーエンハイムはにこりと笑った。
 その瞬間、エンヴィーの周囲を取り巻く空気の温度が変化した。
 ホーエンハイムは向けられる殺気が増したことに、苦笑を零す。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
 怒られて、憎まれて当然だと解っていても、ついそんな言葉が口をついてしまった。
 それが、エンヴィーの怒りをさらに煽ってしまったようだった。
 ぎらぎらとした眼差しで射抜かれる。
 ホーエンハイムは、またこめかみを掻いた。
 どうやら自分は、エドワードやエンヴィーの神経を、どうしたって逆撫でする存在らしい。
 そっと息をついて、「すまない」と呟くように謝罪した。
 それも気に入らなかったのか、エンヴィーが低く唸る。
 それにもそっと吐息を零して、ホーエンハイムはエンヴィーの双眸を静かに見据えた。
 そして、言う。
「エンヴィー、お前は私のことを殺したいほど憎んでいるんだね?」
 確認するようにそう口にすると、ホーエンハイムの言葉を肯定するようにエンヴィーの口ががっと開かれ、大きな咆哮が周囲の空気をびりびりと振るわせた。
 わかりきったことを訊くホーエンハイムに、エンヴィーはただただ苛立っているようだった。
「まあ、当然か」
 口の中でそっと呟いた。
 当たり前だ。
 死んでしまった子供を取り戻すために人体錬成を行い、失敗し、化け物のような存在にしてしまった。
 そして、その罪から逃れるように、あっさりと捨ててしまったのだ。
 恨まれて、憎まれて、当然のこと。
 殺してやりたいと、そんなマイナスの感情を向けられても仕方がないのだ。
 わざわざ問いかけ、確認する必要もない。
 解っているのに問いかけてしまったのは、もしかしたら、マイナスの感情以外のものを期待していたからだろうか。
 純粋に、父親に会いたかった、と。憎んでいることを否定して欲しかったから、問いかけてしまったのだろうか。
 そんなものはただの甘えで、都合のいい妄想と期待でしかないと、他の誰でもない自分自身が良く解っているというのに。
 あまりの愚かさに、ホーエンハイムは自嘲の笑みを浮かべた。
 ゆらり、と、エンヴィーの体が揺れた。
 ホーエンハイムは表情を引き締め、それを見つめる。
 長く、大きなエンヴィーの体が、ゆっくり、ゆっくり、ホーエンハイムへと近づいてきた。
 それだけで、ホーエンハイムにはエンヴィーの意図がわかった。
 いや、そうではない。
 最初から解っていたのだ。解っていて、ここに来た。
 そして愚かしいエゴのために、最初の子供、その成れの果てであるエンヴィーを利用しようとしている。
 この命を免罪符にして。
「すまないな」
 蛇のように巨体をくねらせ、近づくエンヴィーをまっすぐに見据えたまま、ホーエンハイムは言った。
 謝罪を口にしながら、いったい、誰に向かっての言葉なのかとホーエンハイム自身、思う。
 エンヴィーに対してなのか、彼の母親であったダンテに向けてであったのか。
 それとも、ホーエンハイムの我儘とエゴに付き合わされる、すべての人間に対してだったのか。
「……案外、骨が折れたんだぞ、エドワード」
 エンヴィーからそっと視線を外し、ホーエンハイムは空を見上げた。
 夜空には煌々とした月。
 魔術を試してみるには、うってつけの満月だった。
「魔方陣に必要なのは、血。それがいちばん有力な説なんだ」
 嘘か本当かは知らないけれど、と、ホーエンハイムは苦く笑いながら呟いた。
「試してみて、もし、成功していたら……。お前が、気づいたら、私がトリシャの元へ逝けるよう祈ってくれ」
 そんなことは絶対ごめんだと、ホーエンハイムの身勝手をいまだに怒っているエドワードは言うだろうと想像しながら、ホーエンハイムは視線を戻した。
 目の前には、まっくろな、穴が迫っていた。
 それがなにかを、ホーエンハイムはよく知っていた。
 微笑んで、衝撃を、受け止める。
「こんな方法でしか、お前たちの望みを叶えてやれない。すまない」
 白く、鋭い牙が体に食い込むのを感じながら、ホーエンハイムはそっと祈った。
 そうとは知られないように街を囲むように描いた、錬成陣。
 その中心には、エドワードと、この世界のアルフォンスが生活しているアパートメント。
 もしいつかのエドワードのように、この世界のアルフォンスの意識と、息子のアルフォンスの意識がシンクロしているなら。
 この命を対価に、錬成陣を発動させることができるなら。
 世界を繋ぐ道を、作れるのなら。
 そうして、愛しい息子たちが無事に再会できるのなら。
 すべては可能性でしかなく、賭けのようなものだけれど。
 離れても、ずっと、祈っていたことを。
 最後まで、言葉にすることはできなかったけれど、ずっと、いつでも祈っていたことを。
 こんな方法ででも叶えられるのかもしれないとしたら。
 最後に父親らしいことをできるのだろうか。
 ただの自己満足でしかなく、すべてが成功する保障もないけれど。
「エンヴィー」
 意識が、霞みかけていた。
 痛みを感じる感覚さえ、遠い。
 ああ、もう、そんなには持たないな、と、錬成陣の光を感じながらホーエンハイムは思う。
 そして、はじめて、『死』を受け入れようとしている自分がいる。
「エンヴィー」
 声になっているのか、なっていないのか、そんなことも判断できないまま唇を動かした。
「一緒に逝こうな、エンヴィー。トリシャが待っている。彼女はとても優しくて……お前が嫌って、憎んでいるエドワードとアルフォンスの母親だけれど、本当に、とても優しい女性で……だから、お前のことも慈しんでくれる。愛してくれるよ」
 だから、私も、お前も、もう淋しいと思うことはないんだ。
 そう言って、閉じかける瞼を必死に押し上げた先、エンヴィーの赤い瞳が揺れたように感じたのは、ホーエンハイムの瞳の焦点が定まらないから、だったのかもしれなかった。
 意識が途切れる、その瞬間まで。
 エンヴィーとホーエンハイムを包んでいるらしい練成光の、その暖かさを感じられなくなる、その瞬間まで、ホーエンハイムはたったひとつのことだけを祈り続けていた。

――愛しい子供たちが、幸せであるように。
 彼らの、どんな願いでも、叶えてやれるように。 
 それが、たとえ、この命を失わせるようなことでも。
「そばに居られなかったけれど。見捨ててしまうようなことになったけれど、それでも、いつでも、お前たちを愛しているよ」

 最後に呟いた声は、まばゆい光の中に吸い込まれ、誰か――最愛の息子たち――に届いたのかどうか、ホーエンハイムが知ることはできなかった。