Birth 5


「なに、…………なんだ、よ、……からかった、だって?」
 無理矢理感情を押さえ込んだような声が、絞り出された。そう思った瞬間だった。
「大佐は……いつも、そうだ!」
 一瞬で声を荒げたエドワードが、叫んで言った。
 顔は歪んだまま、いまにも泣き出しそうだ。
「大佐は大人で、余裕があるのかもしれないけどっ! 言葉遊びめいたやり取りに慣れているのかもしれないけど、あいにく、オレは慣れてないんだよ!」
 暇潰しにからかわれるのなんて、冗談じゃない。
 吐き捨てるように言って、エドワードが俯いた。
 俯くまでの一瞬に見えた顔は、傷ついたような表情だった。
 ロイは、俯いて、かすかに震えているエドワードの肩を見つめ、言い訳の言葉もなく立ち尽くした。
 胸が、とても痛んでいる。
 ほんの少しの意趣返しのつもりだった。
 ロイよりも、弟のために繋がるものへ意識を向ける愛しい子供。
 傷つけるつもりなど、まったくなかったのに……。どうして、もっと、大事にできないのだろう。どうして、もっと、包み込むように見守ってやれないのだろう。
 子供っぽい嫉妬。
 これでは何度「好きだ」と言っても、信じてもらえなくて当然だと、ロイは苦々しく思う。
 からかいの延長だと思われても、仕方がないことだと思えた。
「楽しいかよ?」
 押し殺されたエドワードの声は、聞いたこともないほど低く、それだけでエドワードの怒りの度合いが知れる。
 ロイのふざけた言動や態度が、エドワードの信頼を失わせていく。墓穴を掘っているんだな、と、ロイは他人事のような気持ちで思い、大きな溜息をつきたい気分だった。
「オレが大佐の言葉に返す反応を見るのは、楽しいか?」
「鋼の……」
「――――大佐がいつだってそうだから、オレは大佐を信用したくても、信用することができない。怖くて、できないっ!」
「…………」
「信用した瞬間に、大佐は簡単に掌を返してしまいそうなんだよ」
 いままでは、確かにそうだった。
 たくさんの女性と出会ってきたけれど、誰一人、傍らに据えたいと思わなかった。
 ロイの浮名を知っている女性の誰もが、警戒を解かずに、それでもロイに近づいてきて、やがて、その警戒が完全に消え去る頃には、ロイの彼女たちに対する興味は失せてしまっていた。
 傍に近づけることさえ疎ましかった人間も、中にはいた。
 役職上、あからさまな態度を見せることはなかったけれど。
 エドワードの核心を突いた言葉に、嘘でも否定することはできず、
「……本当に、すまなかった」
 謝る以外に思いつかず、ロイは、もう一度、深く頭を下げた。
 抱きしめて。息もできないほど強く抱きしめて、謝りたかったけれど、それはまだ許されていないからできない。
 簡単に、触れることもできない。
 どんなに焦がれても、まだ越えられないラインが、大きく横たわっている。
 ロイが思っている以上に、エドワードとロイの間にある一線は広く、自らが招いた事態が、さらにその幅を広げてしまった。
「……大佐はオレのこと好きだって言うけど。何度もそう言うけど」
 エドワードの泣き出しそうな声が聞こえて、ロイはゆっくりと顔を上げた。
 苦しそうに、悲しそうに。どこか怒ったように。さまざまな感情を綯い交ぜにした表情のエドワードが、じっとロイを見つめていた。
 見つめていると言うより、視線の先に、たまたまロイがいた、と言ったほうが正しいのかもしれない。
 エドワードの瞳は、どこか虚ろだった。
 淡々と紡がれる言葉は、静かに、ロイの想いを否定する。
「オレは何度言われたって、大佐の言葉も想いも信用できない――信用したくない。大佐は、……楽しんでいるだけだとしか、思えない」
「どうして信用できない? 信用したくない?」と問いかけたくて、しかし、ロイは問いかける理由を、すでに失っていることを思い出す。
 自ら信用を失うことをしているのだ。ここでその理由を問いかけることほど、滑稽で、愚かなことはないだろう。
 ロイの想いを切り捨てるエドワードの言葉は、ロイの心を残酷に引き裂いたけれど、それを酷いと非難することはできなかった。
 ロイに悪気はなかった。けれど、試すような態度や言動が、たしかにエドワードを傷つけてしまったのだ。
 エドワードの非難を甘受しようと思った。
 いま大事なのは、ロイの想いを否定されたことに対して怒ることではなく、傷つけてしまったエドワードのことを考えることだとロイは思ったのだ。
 自分でも呆れるくらい、甘やかしていると思った。
 けれど、それほどに大事にしたい。ただ、それだけだ。
 それだけ、なのに。
 ときどき、どうしようもなく、歪む想いがあるのはどうしてなのだろうか。
 ただ信じてくれたらいい。ロイのエドワードへの想いを。気持ちを、信じてくれたらいいだけだと、そう思っていた。
 目的のために。弟のために一生懸命なエドワードの、まるで他者を拒絶するかのように頑なに閉ざされた心の奥底に、いつかロイの想いが届けば良いと、そう思っていただけだった。
 それなのに、エドワードにかまいたくて、気を惹きたくて。
 ロイの存在を認めてもらいたくて。弟のことよりも強く、自分のことを思って欲しくて……。
 子供じみた行動の、言動のすべてが、想いを込めた言葉を台無しにしてしまっていた。
 なんて失態。
 なんという、道化。
 思わず大声で笑い出してしまいたくなった、自身の滑稽さ。
 想いを返して欲しいと思っているわけじゃない。本当にそう思っていたのは、いったい、いつまでだったのだろう。
 欲深く相手からの想いを求めはじめたのは、いつからだったのだろう。
 どうして、純粋に、優しい想いを与えるだけでいられないのか。

 いつの間にか生まれてしまっていたもの。
 純粋なものだけでない、感情。想い。

「――本当に、すまなかった」
 ロイの真剣な謝罪に、だが、エドワードの態度は頑ななままだった。
 今はそれも仕方がないと、ロイは溜息をつくしかない。
 こんなときはどれだけ言葉を重ねても、受け入れてもらえない。突っ撥ねられるだけだ。
 本当に、なにもかも信じられないだろうから。
「……鋼の」
 ロイはそっと呼びかけた。
 硬質な光を湛えた瞳が、ロイを見返した。
 冷たく、拒絶するかのような眼差しに、ロイは心臓を掴まれた気がした。
 締め付けられるように痛む、胸奥。
 血の気が引いたように、下がった体温。
 恐怖を、知る。
「なんだよ?」
 返された声音にも温度は感じられない。
 なんの感情も含まない音、表情。
 急速に、エドワードの心がロイから離れたと判る、瞬間だった。
 それなりに築いてきていた「絆」が、一瞬で壊れたのだと、ロイは痛いほど実感させられた。
 こんなにも簡単に、エドワードはすべてを切り捨ててしまう。
 弟に繋がること以外は、きっと、意味を持たないと思っているのだろう。
 些細なことで係わりそのものを切り捨ててしまえる、そんな距離の付き合いかたをして。
 いつ離れてしまっても大丈夫なように。
 離れてしまうことを淋しく感じる気持ちさえ、飛沫のように、すぐに消えてなくなるものだと思っているのだろう。
「鋼の!」
 焦りを隠せなかった。
 ロイは、ロイを無表情に見返すエドワードの瞳に耐え切れず、乱暴とも思える強引さで、しなやかな筋肉のついた腕を取った。
 エドワードの眉根が迷惑そうに顰められるが、かまわなかった。
 そんなことに怯んでいられなかった。
 大事にしたい。
 エドワードの望むことを、叶えられる限り叶えてやりたいと思う。その気持ちに嘘はないけれど、いまは、エドワードの望むことを受け入れるわけにはいかない。
 これは我儘な感情。ロイのことを、まるで見知らぬ他人を見るような目で見て欲しくない。そんな個人的な感情を、優先しているに過ぎない。けれども、いまエドワードの感情を優先させてしまうことは、ロイにとっても、エドワードにとっても、そして、たぶん……誰にとっても取り返しがつかないことになる。
 そう感じたことに根拠はなかった。だから、きっと、本能や勘に近い。
「鋼の」
 腕を掴んだままの勢いで、ロイはエドワードの体を自分のほうへと少しだけ引き寄せた。
 抵抗はなかった。
 ただ、冷めた眼差しがちらりとロイを一瞥しただけだった。
 凍結され、そのまま抹消された感情。
「鋼の、キミが私を信じられない、信じたくないと思うのは仕方がないことだ。しかし、なにもかもを拒絶してしまうことはやめなさい。キミの世界は、もう、キミと弟だけで構成されているわけではないだろう? キミと親しくなった――私や、私の部下たちもいる。そんな人間関係まで切り捨てて、生きて行けるはずがないだろう!? それとも、キミは本気で、弟と自分さえいれば良いと思っているのか?」
「大佐には、関係ないだろう」
 静かに、淡々と。即座に切り返されて、ロイは険しく目を細めた。
「鋼の!」
「大佐の言葉は、信じられない。だから、大佐の言葉は要らない」
「キミはっ!」
 思わず手に力が篭ったのか、エドワードが眉を顰めた。
 腕を掴むロイの手と、ロイを、一瞬だけ交互に見つめる。
 非難するような眼差しに気づいて、ロイは手の力を緩めた。
「……離せよ」
 エドワードはそう言った。
 振り払うつもりはないらしく、離せと言うその真意を、ロイは掴み損ねかけ、しかし、すぐに気づいて憤りを込めた溜息を吐き出した。
「断る」
「離せ」
「断ると言っている!」
 冗談じゃない。
 ロイからこの手を離すことなど、できるわけがなかった。
 そんなことをしたら、もう二度と、ロイからエドワードに係わることができなくなってしまう。
 国軍大佐と、国家錬金術師という名目でしか、係わることしかできなくなってしまう。
 エドワードは自分たちに必要なときだけ、そして、命令された召集を受けるときだけ、「鋼の錬金術師」としてロイの目の前に現れることになるだろう。
 事務的な関係になってしまうだろう。
 ロイから手を離したのだと、そういう理由を成立させて。
 そんなことを容認できるはずがなかった。
「――キミが、もう二度と私を信用してくれなくても……、それでも、私はキミを好きだと言うよ。何度でも、くりかえして言う」
 ロイは、硬質な瞳を真っ直ぐに見据えて言った。