Birth 7


 放たれた言葉に、心臓が、凍りついた。
 そんな気がした。
「……オレは、大佐のことなんて好きじゃない」
 一番、聞きたくなかった言葉だった。
 今まで一度だって、それだけは言われたことがなかった。
「好きだとか言うな」そう言うことはあっても、最後通牒を突きつけられることはなかった。
 それほどまでに……。
 だが、これも自業自得の結果だろう。
 欲を出すから。高望みをするから、しっぺ返しがきたのだ。
 純粋に、ただ、想っていればよかったのに。想っていられたら良かったのに。
 ロイは、凍りつきかけた感情の片隅で思う。
 はっきりとした拒絶を言葉にしたくなるほど。それほどまでに、深く、傷つけていたのか。傷つけてしまっていたのか。
 全身から力という力が、急激に抜ける感覚を味わう。
 エドワードの腕を掴んでいた手からも力が抜け、だらりと手が落ちた。
 もしも、いま、凶悪なテロリストだとか、反軍組織だとか、凶悪犯だとかが現れても、なんの対処もできないだろうなと、他人事のようにロイは思う。
 ロイの生死を握っているのはエドワードだと、こんなときに思い知ってしまった。
 いままでだってエドワードの言葉に、態度に、一喜一憂していた。けれど、たった一言で世界から色という色が消えるほどの衝撃を受けるとは、正直、ロイは思っていなかったのだ。
 怪訝そうな眼差しを感じたけれど、取り繕うこともできないほど衝撃は大きかった。
 掌に残る体温の残滓。それが、ゆっくりと薄れていく。
 それだけでも、留められたら良かったのに。
 そう思う一方で、温もりだけ残っても辛いなと思う。残酷だな、と思う。
 それに囚われて生きて行くのは、辛い。
 なにも残らないほうが、案外、優しいのだろうか。
 だったら、いっそう、記憶も想いもなにもかもなくなってくれないだろうか。
 忘れてしまえないだろうか。
 出会えただけで。好きになれたことが良かった、だなんて、そんな聖人君子のような言葉を言えるわけがない。
 こんなにも好きで仕方がないのに。
 愛しくて、仕方がないのに。
 けれど、想いは一方通行なのだ。
 届くことなく。エドワードの心の奥底になにをもたらすわけでもなく、なにかを残すわけでもなく、否定され、切って捨てられた。
「……私のことが、嫌い、か」
 自嘲を込めて落とした言葉に、エドワードが苦く顔を歪めた。
 なにかを言いかけた唇が、逡巡の後に閉ざされる。
 きゅっと引き結ばれた唇は、もうなにも語りたくないという意思表示に思えた。
 ロイは短く息をつき、エドワードに背中を向けた。
 わずかな動揺が空気を伝わって感じられたけれど、その動揺が煩わしいなと思う。
 妙な同情も気遣いも、いらない。このまま放っておいて欲しい。
 声はかけずに。謝罪などもってのほかだ。なにもいらない。素知らぬ顔で、なにもなかった、聞かなかったように振る舞って、ロイを見送ってくれればいい。
 そのほうが優しい。
 中途半端なものならいらない。
「鋼の、これからは、私に用があるときは前もって連絡を入れるようにしなさい」
 いままでのようには、もう振る舞えない。
 それはエドワードも同じだろう。
 会うことになるのなら、互いに心構えが必要だと思ったからそう言った。他意はなかった。
 言い終えると同時に、ひゅう、と、誰かが不自然に息を飲むような音が聞こえた。
 いまの音はなんだろうと思いながら振り返り、ロイは絶句する。
「鋼の?」
 血の気が引き、顔色の悪いエドワードが呆然と立ち尽くしていた。
「鋼の?」
 呼びかけても返事がないことに、少し、焦りが生まれた。
 足早に傍により、躊躇いつつもエドワードの肩に手を置いて、エドワードの真っ白い顔を覗き込んだ。
 不安定に揺れ、焦点の合わない瞳は、泣き出す寸前のように潤んでいる。
「鋼の!?」
 呆然としたままのエドワードの頬を、正気づかせるために、ロイは軽く叩いた。
「……ぁ、大…佐?」
 頬への衝撃に、焦点の合っていなかった瞳に光が戻り、エドワードがぼんやりと呟いた。
 ロイはほっとして、軽く息をつく。
 いったい、どうしたのだろう。ひどくショックを受けた様子だった。そう思ったけれど、それを口にすることはなかった。
 口にすれば、自分に都合のいい答えを期待してしまいそうだった。ロイの言葉にショックを受けたのだと、そう思ってしまいそうだった。
 それは、とても、虚しいことだ。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すエドワードの様子にもう大丈夫だろうと安堵して、ロイは屈めていた上体を起こす。その一連の動作を、エドワードの瞳が追っていた。
 僅かに視線を逸らしながら、ロイは口を開いた。
「体調が良くないんじゃないのか、キミは? ここ最近、ずっと資料室に閉じこもっていただろう?」
「あ……うん、ちょっと、調べなおしたいことがあったから」
「根を詰めすぎるのは良くないな。今日は早めに宿に戻って、休みなさい。……アルフォンスも心配しているだろう?」
 言って、ロイは踵を返そうとした。
 しかし、その動きはエドワードに阻まれてしまう。
「? なんだね?」
「オレ……嫌いなんて言ってない」
 ぽつりと落とされた言葉に、ロイは苦々しい表情になった。
「キミは「大佐のことなんて好きじゃない」とそう言っただろう?」
「言った……けど、嫌いとは言ってないだろ!」
「同じことだと思うけれどね」
「オレは、好きじゃないってそう言っただけだ!!」
「だから、私のことが嫌いだということだろう!?」
「違う! 全然、違う!」
 傷ついた顔で、エドワードが違うとくりかえす。
 ロイは、なにが違うんだと、天井を仰いだ。
 いい加減にしてくれないだろうか。
 エドワードがロイを信じられないこと、好きじゃないと思うこと。嫌だけれど、それは仕方がないことだと、人の心は自由にできるものではないから、しょうがないことだと納得しようと思っているのに。
 なのに、エドワードの口から、何度もロイを否定する言葉を聞かされなくてはいけないのは、どうしてだろう?
 心の中でエドワードを想うことすら、ロイには許さないとでも言うのだろうか?
 だが、そんな権限、エドワードにもないはずだ。
 だんだん腹が立ってきて、ロイは無表情にエドワードを見つめた。
 ロイの表情に気づいたらしく、エドワードが言葉を途切れさせた。
 言葉の代わりに溜息をつき、ぽつりと、くりかえした。
「大佐のことを嫌っているわけじゃない。ただ好きじゃないって、そう言っているだけだ」
「いい加減にしてくれないか、鋼の。そう何度も聞きたい言葉じゃないんだ。いくら私でも傷つく」
 憮然として言い放ち、ロイはくしゃくしゃと髪を掻き上げた。
 軍服の袖裾から覗いた時計で、時間を確認する。
 そろそろタイムリミットが近い。
「オレだって、何度も言いたいわけじゃない。でも、大佐が誤解をしているから」
 誤解? 誤解だと言うのか、この子供は。
 あんなにはっきりと「好きじゃない」と言っておきながら、誤解だと言うのか?
 呆れを隠しもせず、ロイはエドワードに視線を向けた。
「まるで私が悪いような言い方をする。私は誤解をしているわけではなく、キミの言葉を……」
 ロイはふと言葉を途切れさせた。
 なにかを間違っているような気がしたからだ。
 エドワードが言うとおり、ロイは、自分が誤解をしていると思った。勘違いを、している。
 ロイはエドワードの言葉を思い出し、頭の中でそれをなんども反芻する。
 エドワードはロイに言ったのだ。

「大佐なんか好きじゃない」

 それはたしかにロイの気持ちを、想いを、言葉を否定しているように聞こえるけれど、素直に受け止めてはいけないのではないだろうかと思ったロイは、はっと弾かれたようにエドワードを凝視した。
 ロイと視線が合って、エドワードは怪訝そうに首を傾げかけたけれど、自らが犯した重大な失態に気づいたらしい。血の気のなくなった頬を、かわいそうなほど引き攣らせた。
「鋼の」
 呼びかけると、エドワードはあとずさった。
 怯えたように、くりかえす声は掠れていて、か細かった。
「違う」
「違わないだろう?」
「オレは大佐なんか好きじゃない!」
 はっきりとした否定の言葉に、ロイの胸は微かな痛みを感じた。けれど、その痛みはすぐに消えてなくなった。
 代わりに生まれた、甘い感情。
 もう、惑わされない。騙されたりしない。
 素直じゃない子供の、言葉。その中に隠されていた本当。
 二度と間違えない。
 隠しきれない嬉しさは、表情に表れた。
 我ながら、なんて現金なんだろうと呆れてしまうけれど、嬉しいという気持ちを無理に押し殺す必要はないだろう。
「違う、大佐が思っているような意味じゃない!」
「本当に?」
「本当だ……オレは大佐のことは好きじゃないんだから」
「鋼のは嘘つきだから」
 嘘をつくのが下手だと言うと、エドワードが口を噤んだ。
 拗ねてしまったらしく、口がへの字に歪んでいる。
 反論がないのは、きっと、自覚があるからなのか、これ以上墓穴を掘りたくないからなのか。
 たぶん、両方だろうと思いながら、ロイは言った。
「私のことを好きじゃないと、何度も自分自身に言い聞かせなければならないほど、キミは私のことを好きになってくれているんだろう? もしも違うと言うのなら、鋼の、痛みを堪えるような顔で言うべきじゃないな。誤解を招くし、私を付け上がらせるだけだ」
「……大佐のことなんて、好きにならない。好きじゃないっ…!」
「往生際が悪いな、キミは」
 嘆息して、ロイはエドワードへと手を伸ばした。
 柔らかな前髪に指を絡めて軽く引っ張りながら、ロイは微笑んだ。
 エドワードが困惑した顔でロイを見上げる。
 どうすればいいのか判らない、と、心底困りきっている様子が可愛いと思う。
 逃がすつもりもないくせに、そんなに困っているのなら逃げればいいのに、と、ロイは意地悪く思いながら、エドワードへと顔を近づけた。